動物を擬人化させた物語は世の中にあふれている。
『ズートピア』、『ライオン・キング』、『しましまとらのしまじろう』など。
けどそれらの作品の多くは基本的に「食物連鎖」という問題を闇に葬り去ることで、草食動物と肉食動物が対等な社会を営んでいる。
しまじろうはラムちゃんやトリッピーを食べないのである。
しかし、漫画『BEASTARS』はそのタブーとされた「食物連鎖」という自然界の原理原則をそっくりそのまま物語に持ち込んだ。
草食動物と肉食動物が擬人化されて社会を営んでいるのは他の物語と同じ。
オオカミ、シカ、ウサギ、クマ、トラ、イヌなどが同じ学園を舞台に生活を営んでいる。
しかし、肉食動物はときおり草食動物を動物を食べたいという欲求に襲われる。
草食動物は本能的に肉食動物を恐れる。
『BEASTARS』は野生そのままの本能を抱えた動物たちが、共存の道を模索するという物語である。
登場人物がみな動物ではあるが、いや動物であるがゆえに、現実社会の問題点を残酷なまでにえぐり出すことに成功している。
『BEASTARS』がえぐり出す「欲望垂れ流し社会」
『BEASTARS』を取り巻く現代社会:インターネットと島宇宙と欲望と
「インターネットは社会を分断したのか、それとも繋げたのか」というテーマには議論が絶えない。
物理的な面から考えれば間違いなく世界を繋げた。
例えば、私たちはインターネット以前には知ることができなかった地球の裏側のニュースにも一瞬でアクセスできる。
しかし、社会的な面から考えると議論は分かれる。
インターネットが普及したことで、人は自分の見たいものだけを見ることが可能になった。
amazonのレコメンド機能やtwitterのフォローなどの技術によって、知りたくない情報がそもそも視界に入らない環境が急速に整いつつある。
さらにはコロナ禍で明らかになったように、リモート技術を使えば顔を合わせたくない人間と顔を合わせずに仕事を行うことがすらできる。
人が生きていく上で、他人は、もはや必要条件ではないのだ。
そうなると、自分と考え方や文化が違う人間とは付き合わない方向に社会は流れる。
社会学ではこのことを「島宇宙」と表現する。
それぞれが自分の島に閉じこもって、考え方や文化が違う島とは交流しないで済む世界。
「それの一体何が悪いのか。ストレスがなくていいじゃないか」
そのような意見もあるだろう
確かに、「島宇宙」的環境はストレスも葛藤もなく快適だろうが、それと引き換えに失うものもある。
その一つが倫理であったり、理性だ。
倫理や理性とは人が人とつき合い、社会を営む上で必要なルールだ。
他人と生きてゆくならば、人は自分の欲望のままに生きていくことはできない。
個と個の欲望の間の調停を行うために、欲望にブレーキをかける必要がある。
そこに倫理・理性が持ち出される。
しかし、島宇宙ではそのような欲望同士の葛藤は生じない。
ブレーキが必要ない。
人は欲望・本能のまま、信じたいことを信じたまま生きていくことができる。
欲望垂れ流し社会である。
ずっと島宇宙同士が離れて生きていけるのであればそれでもいいかもしれない。
しかし、アメリカの大統領選挙をめぐる両陣営の衝突をみれば明らかなように、それは不可能である。
にもかかわらず、異なる考えを持った人同士が話すためのツールである倫理が失われる。
本能のみの人間であふれかえる。
これは非常に大きな問題である。
『BEASTARS』が描く本能や欲望との葛藤
『BEASTARS』は登場人物を動物に置き換えて、より本能のあり方を極端に表現することで「倫理」の問題を際立たせる。
あるいは逆により倫理・理性が要求される社会を設定することで強制的に表面化させる。
肉食動物の草食動物を食べたいという欲求は本能に刻み込まれたものだ
草食動物の肉食動物への恐怖は遺伝子レベルの叫びだ。
本来は共存できないはずの欲求・本能同士が共存する世界を設定する。
自然原理に逆らい無理を押し通した社会。
そのような社会を成立させようとすれば、必然的に本能との葛藤が生じる。
そして本能へのブレーキのための倫理が総動員される。
あるものは倫理だけでは足りず、力を抑える薬を常用させられる。
さらには草食動物に認められるため、草食動物のような平らな歯に総入れ歯したライオンまでいる。
自然をいびつに歪めた倫理、そこには著者の画力と相まっておぞましさまでもを感じる。
しかし、『BEASTARS』の社会ではそういった「倫理」が、ありえそうもないものだからこそ、現実以上に美しくそして怪しく光り輝く。
倫理から解放され、見たいものだけを見る「島宇宙」社会が本当に望ましい社会なのか、強く問題提起する。
倫理から解放された現実世界の人間と、『BEASTARS』に出てくる狂気なまでに倫理的であろうとする動物。
倫理の「倫」は「人の道」という意味らしいが、果たして一体どちらが人間的なのであろうか。
私たちは島宇宙に完全に閉じこもってしまってもいいのだろうか。
『BEASTARS』の登場人物と同じ水準までに倫理的とはいかないまでも、「他者」に会い、異なる文化に触れることが必要なのではないだろうか。