夜桜と猫の集会とワイワイ

cat-circle 人生観

猫の集会という現象を知っていますか。

特定の場所に数匹から数十匹の猫が集まる現象を猫の集会と言います。

例えば住宅街の中でぽっかりと開けた駐車場に猫が集まって、何をするとはなしに寝転んでいる光景を目撃したことがあるのではないでしょうか。

あれが猫の集会です。

石田 ゆり子『ハニオ日記 III 2019-2021』扶桑社、2021年。

あの光景が、昨今のニューノーマルと呼ばれる時代においては、とてつもなく重要なのではないか、と思えることがありました。

*

僕が会社からの帰路についているときのことです。

自宅までの間にちょっとした公園があります。

マンションが一棟立つか経たないかぐらいの広さの敷地に、ベンチと滑り台とブランコがあるだけの公園です。

ただ、ありがたいことに桜の木が公園の円周を囲むように並んでいます。

リモートでの業務が増え、季節感どころか曜日感覚まで失いがちの今日この頃。

数少ない時間の流れを感じるツールとして、桜の木という存在はありがたい。

すっかり変化や刺激が少なくなった日常を少しでも彩るため、月に照らされる夜桜を少し立ち止まって眺めていました。

すると「おや」とあることに気が付きました。

公園の中が何やら活気に満ちている。

思わず公園の中に足を踏み入れました。

そこでは「猫の集会」が広がっていました。

あるベンチでは、男の子の兄弟とその母親がお菓子を食べながら桜を眺めている。

また別のベンチでは会社帰りと思われる二人組の中年男性が缶ビールを傾けている。

さらには、釣りに使われるような小さな折り畳み式の椅子と机を用意して、乾杯をするおっちゃんたち。

決して密になることはなく、十分に距離を取り合って人々が点在している空間。

その光景を見て、何かほっとするようなものを感じました。

緊急事態宣言が解除されたとはいえ、自粛の圧力と監視のまなざしで緊張感が解けない今日この頃。

彼らはおそらく目立たないように、夜にこそこそと花見をしに出てきたのだと思います。

そこに何か、市井の力強さをみたいなものを感じました。

病気と行政と堅苦しい空気間には負けないぞみたいな。

さながら、人がいなくなって荒廃した都市に生い茂る緑と生命力に満ちた野生動物のような。

ダイダラボッチに生命力を吸われて彼果てた森に、再び木々が芽吹く『もののけ姫』のラストシーンのような。

どんな場所でも生き抜いてやるし、楽しんでやるみたいな。

決して顔見知りでもないし、ましてやつながろうとしてもいないそれぞれの輪っかが、息苦しさへのアンチテーゼだけで緩やかにつながり、一体感を生み出している空間。

リモートで人と会うことが当たり前になった今日、人と会う際には否応なしに目的が設定されます。

会議であれば何かを決定し、出会い系であればだれかと知り合うというような。

しかし、この「住む」という目的の集積である住宅街にぽっかり空いた目的のないこの空間。

目的から自由な無色の空間。

目的がない空間だからこそ、連帯感と開放感がそこには生じていました。

*

僕は夜桜の下で開かれた「猫の宴」に、力をもらいました。

僕たちは大丈夫だ。まだ死んじゃいない。

タイトルとURLをコピーしました