軽すぎても重すぎてもしんどい人間関係をどうするか

Clown 映画

先日投稿した『花束みたいな恋をした』の感想では、ヒロイン絹の「特定の文脈の中におさまる人間関係のみを維持する」ような他人との付き合い方を短編集的人間関係と呼び、それがもたらす人間関係の爽やかさにに注目しました。

その爽やかさは『花束みたいな恋をした』の中では、主人公の麦の「この人と生きたい」という重い人間関係をうまく相対化し、絹と麦をウェットでしんどい人間関係由来の束縛から解放していました。

本稿では、「短編集的人間関係」に別の切り口を提示してみたいと思います。

というのは、『花束みたいな恋をした』の技法の巧みさに納得させられ、「短編集的人間関係」が持つ負の部分を見落としてしまいかねないからでうす。

「社会は良いとこどりできない」というのは社会学者の宮台真司さんの言葉ですが、物事は必ず良い面と悪い面の両方を持ちます。

そして、「短編集的人間関係」が持つ負の部分というのは、まさに現代社会における根本的な病理とつながており、それを見落とす危険性は計り知れません。

本稿では、「短編集的人間関係」のまさに負の部分に注目している土井孝義『キャラ化する/される子どもたち』を補助線として、「短編集的人間関係」を解きほぐしていきたいと思います。

土井孝義『キャラ化する/される子どもたち』岩波書店,2009年。

以下ではまず本書を要約します。

土井孝義『キャラ化する/される子どもたち』の要約

本書は現代社会にはびこるSNSアカウントでのコミュニケーションのような「キャラ化」したコミュニケーションの背景と問題点を描くことで、現代社会の人間関係の闇への処方箋を提示しようと試みている。

価値観が多元化した社会において、自分を常に肯定できる絶対的な軸を見つけることは難しくなった。

かつては絶対的な指標であった宗教や国家、会社などの承認ツールは、もはや相対的なものでしかない。

では、現代の人間はその承認の不足を何で補っているかというと、身近な人間関係からの承認だ。

だからこそ、人間関係から承認を勝ち得るためのコミュニケーション能力や空気を読むことがかつてないほど称揚される。

しかし、多元化した価値観を持つ他人とコミュニケーションをとろうとすると労力がかかる。

そこで一般的に使われるのが「異物には近づかない」と「キャラ化」という戦略である。

そもそも自分とかけ離れた価値観の人間とはつるまないし、つるんでる相手とのコミュニケーションも「キャラ」を演じることでパターン化し、予定調和的で労力のかからないものにする。

水戸黄門で例えるなら(なぜかこの例が思いついた)、水戸黄門の印籠が通じない相手は物語に出てこないし、「印籠オラッ」→「ははぁ~~~~」というお決まりのコミュニケーションパターンを毎回使うことでシンプルスッキリ安心感な物語展開になるみたいなものである。

しかし、この戦略には副作用もある。

それは、自分の想像の外から来る異質なものへの耐性がつかず、非常にもろくか細い自己肯定感しか育たないということだ。

それを克服するためには、自分を外部に対して開かれた状態に置き、多種多様な人との出会いと共闘をしていくことが必要である。

比喩的に言えば彼らは前田裕二『人生の勝算』を一緒に読むべきだった

『キャラ化する/される子どもたち』の分析は非常に納得のできるものです。

この切り口から『花束みたいな恋をした』の「特定の文脈の中におさまる人間関係のみを維持する」絹を見ると、「大学生サブカルコミュニティ」という非常に狭いコミュニティでしか生きられない危うさを見出せるかと思います。

逆に主人公の麦を肯定的に捉え直せば、「大学生サブカルコミュニティ」から「社会人企業コミュニティ」へと、異質なコミュニケーションに適応したわけです。

適応するために前田裕二の『人生の勝算』まで読んで!(なお、絹は麦が『人生の勝算』を読んでいる姿に、「変わってしまった」とショックを受けます。このシーンでの扱い方には笑いました。僕も読みましたが普通にいい本だったのでかわいそう…)

前田裕二の『人生の勝算』幻冬舎文庫,2019年。

そして、『キャラ化する/される子どもたち』が示す現代社会への処方箋も正論ではあったと思います。

しかし、正論だからこその落とし穴が、本書にはあったように思います。

それは「コミュニケーションコストを避けるためにキャラ化した人に、キャラ化の副作用を避けるためにコミュニケーションコストを取れ」というのは別の価値観に基づく根性論に過ぎないということです。

根性論では「いろんな人と引き合える人が社会で役立つことくらいわざわざ言われなくても当たり前にわかっているよ。ただその労力が煩わしいっていってんだ」リアクションがかえって来るでしょう。

まさに、『花束みたいな恋をした』のラストで「これまでの関係性が変わったとしても一緒にいたい」と絹を説得しようとして失敗した麦のように涙で崩れることになるでしょう。

人間はめんどくさいことは嫌いだし、楽をしたい生き物です。

そして、自分とは違う価値観の人間とコミュニケーションをするのは非常にしんどいことです。

それを乗り越えさせるのであれば、異物とコミュニケーションをとることがそのまま快楽・楽しみ・利益に直結するような状況の設定が必要になるのではないでしょうか。

ではそれはどうやって設定するでしょうか。

非情に難しい問題ですが、一つここで例として上げられるのは「物語」の力を借りることです。

逆説的な表現になりますが、「特定の物語の中におさまる人間関係のみを維持する」ことを打破するためにこそ、「物語」が必要になります。

感覚的にわかることかと思いますが、私たちは小説を読むときに全く性格も境遇も違うキャラクターに共感します。

物語には異なるものを同士を繋ぐ文脈を形成する力があります。

ここに一つのヒントがあるのではないでしょうか。

つまり、比喩的に言えば『花束みたいな恋をした』で絹は、前田裕二『人生の勝算』を読んでいる麦にショックを受けるのではなく、一緒に『人生の勝算』を読むべきだったんです!

「短編集的人間関係」つまり「キャラ化」をすぐに全肯定したり全否定したりするのではなく、それを従来の「重い人間観」に組み合わせることで適度に軽やかな風を呼び込んでいくことが必要なのではないでしょうか。

現実に自然とそれをできる場所がないものか…

自分とは価値観の異なった「物語」を浴びることができる場はないものか…

…あっ!

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