※ネタバレ注意
2021年1月14日、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』公開の再延期が発表された。
「物語の終わり」を待ち遠しく感じていた身としては残念に思う。
この延期は、2021年1月現在の状況を鑑みてということであったが、現代社会においてエヴァンゲリオンが置かれる困難な立ち位置を象徴しているようにも感じられてしまった。
その困難とは一言でいえば「書くべきテーマが消失してしまっている」ということだ。
書くべきテーマがなければ、当然テーマと地続きである「結末」を迎えることもできない。
本稿では「エヴァンゲリオンの現代社会における困難」の分析を行う。
そしてそのための補助線として村田沙耶香による小説『消滅世界』(河出書房新社、2015年。)を導入する。
なぜ、この小説を導入するのか。
それは『消滅世界』がエヴァンゲリオンと同じテーマを持つ「人類補完計画」の物語であるからだ。
同じテーマを持つ『消滅世界』の結末の歪さが、たびたび延期を繰り返す『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の「物語の終わり」の困難を、書くべきテーマの消失をものの見事に物語っているのだ。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末の延期を村田沙耶香『消滅世界』に見る
エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」と「他者」
エヴァンゲリオンの内容とテーマをざっと見ておこう。
この物語は、「使徒」と呼ばれる謎の敵に対して人類が「エヴァンゲリオン(通称エヴァ)」と呼ばれる謎の機械に搭乗して撃退する物語である。
このエヴァに搭乗できるのは、主人公碇シンジを含む選ばれた思春期の子供たちだけであり、彼らはそれぞれが内面的な問題を抱えていて他人とのコミュニケーションを不得意としている。
子どもたちは特務機関NERVに所属して使徒迎撃にの任務にあたるが、NERVの真の目的は主人公の父碇ゲンドウを含む上層部のみが実態を知る「人類補完計画」を秘密裏に進めることであった。
人類補完計画、それは互いに憎しみ合い傷つけ合う脆弱な個体として存在する人類を、個を消失させてひとつの生命体に溶け合わせるという計画である。
この「他者と生きるか、他者のいない世界を生きるか」というテーマは、コミュニケーション不全の内省的登場人物として物語序盤から描かれており、エヴァンゲリオン全体に通底するテーマである。
貞本義行『【愛蔵版】新世紀エヴァンゲリオン (1) 』KADOKAWA、2021年。
では、このエヴァンゲリオンのテーマと村田沙耶香『消滅世界』のテーマはどのように一致しているのだろうか。
村田沙耶香『消滅世界』とエヴァンゲリオンの一致点
村田沙耶香『消滅世界』では人工授精で子供を産むことが常識となった平行世界を描く。
その世界では夫婦間の性行為は「近親相姦」として禁止され、恋人は家族の外で作るか二次元のキャラクターで済ます。
このように登場人物たちは人間関係に対して非常に閉鎖的自足的な生活を送っている。
主人公だけは両親が愛し合った結果として生まれてくる。
そのために主人公は、母親と世間の「家族」観・「セックス」観の間で板挟みとなることになる。
さらにこの物語では、この「個人主義」を突き詰めた実験都市が千葉県に建設される。
実験都市では、家族は禁止、出産は男女ランダムに割り当てられる(この都市では技術の進歩により、男性も妊娠できる)。
共同生活を営む他者の存在は雑音や不潔なものとして、いら立ちと嫌悪を持って感覚される。
子どもは出産直後、すぐに取り上げられ都市全体の「子どもちゃん」として育てられる。
この都市では全ての大人が「子どもちゃん」の「おかあさん」であり、血縁による親子関係は否定される。
養育環境のためか、そこで育つ子供は皆均一な見た目をしており「個体差」は希薄だ。
もはや、具体的な存在としての「他者」はおらず、抽象的な概念・全体としての「子どもちゃん」「おかあさん」のみが存在する。
「個人主義」を突き詰めて結果、この世界の人々は「全体主義」的な単一の概念になる。
まさに、他者を拒絶し、人類の融合を目指す「人類補完計画」である。
この千葉の実験都市が「エデン」と呼ばれ、聖書の物語が下敷きとされていることも、エヴァンゲリオンとの一致を感じさせている。
村田沙耶香『消滅世界』の結末の歪さと現代社会におけるエヴァンゲリオン
村田沙耶香『消滅世界』において、主人公は非常にバランスの取れた存在として描かれる(あるいはバランスが取れすぎている点で異常だともいえる)。
私たちが生きる現実に近い恋愛観を持つ母親に育てられながらも、その価値観に完全には同化しない。
かといって、家族を経済的安定や子供を持つための道具とみなし、二次元で充足する世間の価値観にも違和感を覚える。
移住した当初は嫌悪感を感じていた実験都市「エデン」の価値観にも次第に順応する。
かといって、無自覚に「洗脳」されるわけではなく、「常識は時代や場所によって違うものであり、どうせなら生きやすい常識を選べばいい」と距離をとって把握し、順応していく自分を自覚してもいる(その結果、自分と血がつながった子供が都市に取り上げられても淡々と受け入れる)。
このように主人公は、自分の「本能」や「これまでの常識」に全くこだわりを持っていないのだ。
「人類補完計画」的世界観に対しても「ま、そういう価値観もあるよね。今後それが生きやすいならそれに順応しよう」というようにふるまえる。
それゆえ、その主人公像から考えるならば、最後の場面はいささか不自然であり、物語のメッセージとしても精彩を欠いているように思える。
物語のラストで、「エデン」の外から他者を重視する「旧態依然」とした価値観を持った母が、主人公の下を訪ねてくるのだが、その結末が急なサスペンスでありB級ホラーなのだ。
他者が存在しない「人類補完計画」的世界に、自らの子供をささげても気にしないほどに順応しているのであれば、母が自分と違った価値観を持っているかどうかなど、もはやどうでもいいはずだ。
特に、自らの価値観を絶対視せず「常識は時代や場所によって違うもの」と認識して、人々が自足的に生活を営む時代に積極的な意味を見出そうとする主人公であれば、なおさら母という「他者」に過剰反応する理由はないはずだ。
しかし、主人公は「異常」な反応を見せる歪さを見せる。
そのことで、丁寧に主人公の感覚の変化の描写を積み上げてきた全体の調和が乱れ、チープな空想物語になってしまっている。
これはなぜか。
サスペンス展開によるウケを狙ったのだろうか。
いや、そうではない。
この物語が出版された2015年という時代において、さらにこの物語の設定の中で、物語に「他者」を導入しようとすれば、必然的に「チープな空想物語」にならざるをえなかったのではないか。
このことは1997年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』(通称:旧劇場版)と比較すればはっきりする。
旧劇場版のラストでは主人公のシンジが人類補完計画を肯定するかどうか選択を迫られる。
別の言葉で言えば「他者と生きるか、他者のいない世界を生きるか」を迫られるわけである。
そこで主人公は人類補完計画ではなく、自らを「気持ち悪い」と拒絶する少女アスカと現実を生きることを選択する。
このことはしばしば、ラストに「他者」を選択することで、当時の内向的で趣味の世界に逃避する若者たちに「現実に帰れ」というメッセージを送ったと分析される。
1997年には「他者と生きること」が「現実に帰ること」なのだ。
村田沙耶香『消滅世界』ではどうか。
まず、物語の内部の世界においては、「エデン」の外においても閉鎖的・自足的に生きることが一般化している。
つまり、この世界において「現実」とはそもそも「他者と生きないこと」なのだ。
また、村田沙耶香『消滅世界』が執筆された2015年当時の現実世界においても近い指摘を行うことができる。
例えば、一貫して低下し続ける選挙投票率が示す様に、政治的葛藤や社会問題といった社会=他者への関心は低下し続けている。
1995年から日本で普及し始めるインターネットの登場も「他者」に目を向けさせない傾向を加速している。
創作物のテーマも、恋人のような「身の回りの人間関係」と、「世界の危機」に両極分解し、間の「社会」が描かれなくなっている
『消滅世界』内部の世界と同じとは言わなくとも、もはや、「他者と生きること」が「現実」とは言い切れなくなっているのだ。
2020年に加速したリモート全面化の現状を考えると、そのことはより分かりやすい(家に独りでいることが現実なのだ)。
このような現状で村田沙耶香『消滅世界』は最後に「エデン」へのアンチテーゼとして「他者」としての母親を持ってきた。
その結末には急展開の不自然さとチープさがあった。
しかし、「他者と生きないこと」が「現実」の世界で、「他者」を持ってこようとすれば、それは必然的に現実感を欠いた「ファンタジー」にならざるを得ないのである。
虚しく延期を繰り返すしかない『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
以上で分析した村田沙耶香『消滅世界』の結末の歪さは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の抱える問題を浮き彫りにする。
「人類補完計画」が問いかける「他者と生きるか、他者のいない世界を生きるか」はもはや意味をなさない。
何故ならば、私たちは「他者と生きないこと」が前提の「現実」を生きているからだ。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は批評すべき対象も、反映すべき社会も見失った。
虚しく延期を繰り返す『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、その状況を象徴しているように思えてならない。