※ネタバレ注意
結婚式の招待状が郵便受けに届いていた。
懐かしい名前が書かれている。
高校時代の友人からだった。
(とかなんとか不意に郵便を受け取ったような書き出しをしたが、送付先の住所を知らせるために事前にLINEで結婚は聞いていた。現代社会では油断すると不意の出来事に出くわすこともできないのである。)
高校時代は一番長く時間を過ごした友人だったが、卒業してからはすっかり疎遠になってしまっていた。
「あいつも結婚か」
一抹の寂しさを感じながら、ぺりぺりと封筒を留めているシールをはがした。
『花束みたいな恋をした』の感想
先日、映画『花束みたいな恋をした』を観た。
菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹のサブカル大学生の恋愛物である。
二人の出会いは小説のような偶然から始まり、趣味での意気投合から一気に距離が近づく。
気づいたら二人は付き合い始め、大学卒業後もイラストレーターとパン屋のバイトという自由気ままなサブカルライフを楽しんでいた。
しかし、二人のサブカル物語は長くは続かない。
金銭的な困窮からそれぞれ就職し、働き始める。
二人の生活リズムは徐々にずれ始める。
麦は長時間労働と精神的圧迫から、これまでのサブカル趣味を楽しめず「パズドラしかやる気が起きなくなってしまった!」(ここは思わず笑った。)
置かれた環境によって麦の価値観は大きく変わる。
一方絹は比較的時間が取れる事務職で、これまで通りサブカル趣味を楽しむ。
すれ違う二人の価値観と生活。
二人の距離は一度も縮まることなく拡大する一方で、結局破局を迎えてしまう。
ここまでの要約だとよく聞くような話だが、この映画には一つ大きな特徴がある。
観た人はわかると思うが、二人は別れた後、ワンピースするのだ。
ありったけの夢をかき集めるのである。
具体的には、涙ありの別れ話でカタルシスを迎えた後は、めちゃくちゃサバサバさっぱりわかれて、いい友達(?)になるのだ。
「奇妙な友情すら感じるよ…」とでも口走りそうだ。
ここに物語全体の構図が表れている
その構図とは「こんな物語を生きたい」と「この人と生きたい」の対比だ。
麦は「絹と生きる」ことを目的に置くから、二人の価値観がずれ、当初思い描いたサブカルカップルじゃなくなっても、結婚という手段を使ってでも一緒に居続けたいと願う。
一方の絹は、「麦とサブカルカップルの物語を生きる」ことを目的に置くので、変わってしまった関係を終わらせようとする。
たとえ麦と生き続けたとしても、あの日思い描いた物語は二度と生きられないのだから。
江森 康之『「花束みたいな恋をした」オフィシャルフォトブック』リトル・モア、2021年。
別れ話のレストランのシーンで絹にのみ見える位置にかつての自分たちを思わせる大学生カップルが来たのは偶然ではない。(麦は「振り向いて」ようやく「サブカル物語を生きる二人」を見つける)
この二人の対比の描き方から映画が提示する新しい人間関係観が見えてくる。
通常、人間関係を考えるとき、「変わらないもの」が尊いものとして扱われる。
「変わらない友情」「変わらない愛」「100年たっても好きでいてね」「一生一緒にいてくれや」「ずっ友だよ」「添い遂げる」。
その枠組みから考えれば、何としてでも「この人と生きたい」と考える麦は肯定的に描かれてしかるべきだ。
しかし、この映画は麦を徹底的に否定的な描き方をする。
そして、麦も最終的に「サブカルカップルの物語」を生きたかつての自分たちを思い出し、その物語とともに絹との関係を終わらせる決意をする。
その結果がワンピースであり奇妙な友情だ。
麦と絹は「サブカルカップルの物語」しか生きられなかったが、その物語は完結した美しい物語として本棚に飾っておく。
この人との物語はここで終えるのが美しい。
そうやって完結した短編の物語が無数に連なる。
長編物語ではなく、短編物語集。
そう、物語の中に何度も出てくる今村夏子の『ピクニック』のような短編集。
短編をいくつも集めて私たちは花束を作るのだ。
そんな人間関係観もいいのではないかと、この映画は私たちに提示してくれる。
そこには長編物語的人間関係が持ちえない爽やかさがあった。
花を集めて束にするように
そう考えると、高校時代の友人と疎遠になるのも悪いことではないかもしれない。
私は机に置かれたままの結婚式の招待状を眺めながら、そんなことを思った。
彼との高校時代の短編物語は美しかった。
ヒットしたジャンプマンガのようにダラダラと物語を続けなくてもいいのではないか。
彼との物語はあの時に完結したのだ。
…
よし、招待状の返信が遅れた言い訳はこれぐらいでいいかな。
やばい!すまん!今日返信出します!
結婚おめでとう!
↓もうちっとだけ続くんじゃ