『人新世の「資本論」』の要約と解説|マルクスをアップデートせよ

environmental destruction

人新世という言葉をご存じでしょうか。

ジュラ紀とか白亜紀のように地質による時代区分がありますよね。

その時代区分を行ったとき現在が過去とは全く違う時代であることを強調するために作られた新しい概念が「人新世」です。

どういった特徴を持った年代なのでしょうか。

wikipediaでは下記のように定義されています。

人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世(Holocene,ホロシーン)に続く想定上の地質時代である。

環境問題で海面が上昇したり、氷河が溶けたり、酸性雨が降ったりという話はよく耳にするかと思います。

人類の活動はもはや地球や地質に影響を与えるほどになっています。

その様な人類の影響で作られた地質の時代を「人新世」と呼ぶわけです。

そのような「人新世」の問題をどう克服するのかを考えたのが斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』になります。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社、2020年。

この記事では『人新世の「資本論」』の要約と解説を行います

『人新世の「資本論」』の3つのポイント

1.資本主義内部から出てくる解決策では資本主義の問題は解決できない

2.マルクスをアップデートして、「脱成長コミュニズム」にむかうべきだ

3.「脱成長コミュニズム」では自己抑制が重要だ

 

『人新世の「資本論」』のさっくり要約

『人新世の「資本論」』はマルクスを再解釈することで、環境問題や経済格差などの資本主義が引き起こす問題に対する特効薬として役立つように「コミュニズム」をアップデートしようと試みています。

資本主義内部から出てくる「持続可能な経済成長」や「技術的楽観論」では問題の根本的治療にはならず、二度と自然環境を元に戻せないような決定的悲劇を迎えてしまうまでに解決が間に合わないと筆者は試算しています。

斎藤幸平氏いわく、もはや環境保護と経済成長は両立しない。

そのため経済成長は諦めて、「資本主義的な利益最大化のための合理化という価値観」から、それを自己抑制して「万人の繁栄と持続可能性に対して合理化する価値観」に切り替える必要があります。

筆者はその主張の理論的なヒントを、従来見過ごされてきたマルクスの晩年の研究ノートに見出しました。

その結果が斎藤幸平氏の唱える「脱成長コミュニズム」です。

『人新世の「資本論」』の解説

では、『人新世の「資本論」』の詳細を解説していきたいと思います。

なぜ持続可能な経済成長や技術的楽観論では問題の根本的治療にはならないのか

持続可能な経済成長や技術的楽観論では間に合わない

結論として斎藤幸平氏は『人新世の「資本論」』においてマルクス主義に人新世の問題の解決策を見出すわけですが、それを聞いてどう思いましたか。

えっ、今さら?ソ連は崩壊したじゃん

何もそこまで極端に走らなくても

その様な感想が浮かんできたのではないでしょうか。

実際に世の中には、他の手段によって環境問題を解決しようと試みている人も大勢いるわけです。

たとえば、「環境保全と経済成長のバランスを考える持続可能な経済成長を目指そう」とか、「逆に技術革新を加速しまくれば、環境問題を完全に解決できる手段が思い浮かぶよ」とか。

なぜそういった手段ではだめなのでしょうか。

斎藤幸平氏はこう主張します。

「間に合わない」

例えば、技術革新で環境問題の解決をおこない、経済成長と環境保全の両立と考えたとしましょう。

そのための一つの指標が経済活動に対してどれだけの二酸化炭素が出ているかを示す「GDPに対する二酸化炭素排出割合」です。

現在、技術革新と二酸化炭素排出量に制限をかけることで、「GDPに対する二酸化炭素排出割合」を下げようと各国は取り組んでいます。

それが、どれだけうまくいっているのでしょうか。

結論から言えば、全くうまくいっていません。

斎藤幸平氏は以下のようなデータを引用しています。

世界規模で見た場合、二〇〇四年から二〇一五年のあいだに、排出割合は年率わずか〇・二%しか改善していないというのである。

0.2%でもずっと続けていれば、いつか経済成長と環境保全の両立できる日がくるはず!

このような疑問をが思いうかんだ人もいるでしょう。

では、その「いつか」を地球はいつまで待ってくれるでしょうか。

ダラダラと「いつか」を越えてしまわないためには、取り返しがつかない状態になるまでのタイムリミットを設定しておく必要が在ります。

そのための重要な概念がプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)です。

プラネタリー・バウンダリーというタイムリミット

プラネタリー・バウンダリーは環境学者ヨハン・ロックストローム氏の研究チームが2009年に提唱した概念です。

これは、自然本来の回復力を超えて取り返しがつかない環境の変化を引き起こす可能性がある限界点を指します。

「気候変動」や「絶滅の速度」など、主に9つのポイントで測定されます。

また、すでに「気候変動」、「生物圏の一体性」、「土地利用変化」、「生物地球化学的循環」の4項目は、人間が安全に活動できる境界を越えるかなり危険な状態にあるという指摘もあります。
※参考:環境省『平成29年版 環境白書・循環型社会白書・生物多様性白書』(https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h29/pdf/gaiyou.pdf

さらにロックストーム氏自身が2019年には、経済成長と気温上昇率の両立は不可能であり「緑の経済成長は現実逃避」と主張しています。

このように、「環境保全と経済成長のバランスを考える持続可能な経済成長を目指そう」とか、「逆に技術革新を加速しまくれば、環境問題を完全に解決できる手段が思い浮かぶよ」では、もはや手遅れの状態に地球はあると斎藤幸平氏は主張します。

資本主義の責任転嫁

なぜ「GDPに対する二酸化炭素排出割合」むけて各国が取り組んでいるにもかかわらず、環境保全はたいして進まないのでしょうか。

理由の一つが、ブラジルや中東などまさに経済成長をしている国は、環境問題を二の次にバンバン二酸化炭素を出しているからです。
※参考:全国地球温暖化防止活動推進センターウェブサイトhttps://www.jccca.org/download/13172)

新興国からすれば「お前ら先進国は自分だけ成長したからいいけど、おれらには環境のことを考えて経済成長を我慢しろというのか」という気持ちでしょうか。

こういうと、新興国だけに問題があるように聞こえてしまうかもしれませんが、それは大きな間違いです。

先進国は確かに、「GDPに対する二酸化炭素排出割合」などのエネルギー効率の改善が進んでいます。

しかし、それは純粋に「先進国の自制」や「先進国の技術革新」だけによるわけではありません。

新興国に自らの負担を輸出しているのです。

たとえば、先進国は、二酸化炭素排出量の多い、エネルギー採掘や工業などの産業分野を新興国に任せて、自身はそれを買い上げるということを行っています。

そればかりか、二酸化炭素の排出を抑えるために「ゴミ」を新興国に輸出し、その処分を新興国に任せるということも行っています。
※参考:ハフトーク『「日本はプラスチック廃棄物の処理を海外に押し付けている」専門家が指摘⇒今できることについて聞いてみた』。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/plastic-trash_jp_5cedf983e4b0ae671058d843)

斎藤幸平氏はこの状況を「問題を別の場所に付け替えているだけの責任転嫁」と表現しています。

こういった状況を踏まえ、筆者は「脱成長コミュニズム」が必要だと、つまり「資本主義というシステムを根本的に変える」必要があると主張しました。

ここでマルクスの登場です。

マルクスをアップデートせよ

従来のマルクス主義の問題点

マルクスは従来エコの思想と相性が悪い考えとされてきました。

それはマルクスが進歩史観という立場をとっていると考えられてきたからです。

進歩史観とはなにか。

それは、歴史を直線的に人類が進歩してきたものだという考え方です。

狩猟採集社会から定住社会へ、地方分権から中世王政へ、中世王政から近代民主主義へ、そのように人類は進歩してきたと歴史を見ます。

これの何が問題なのでしょうか。

一つはヨーロッパ中心主義です。

進歩史観に立つと、アジアや中東のような文化圏は「多様性」としてではなく「遅れた文化」と見なされます。

そうなると「遅れた文化」は「進んだヨーロッパ」が導いてあげなければならない、という発想を正当化することになります。

この考えの先にかつての「帝国主義」もあります。

そしてヨーロッパ中心主義はもう一つの問題点である生産力至上主義と強く結びついています。

生産力至上主義では生産力と経済こそが物事を測る指標で、それが向上すればゆくゆくはあらゆる社会問題が解決されると考えます。

そのため、環境問題は二の次、三の次になります。

マルクスは、コミュニズムは資本主義が成熟しきった次の社会の形式であり、資本主義よりも生産性が高いものとして提唱していたと従来は解釈されてきました。

この考え方では生産が環境にもたらす影響は無視されることになり、それ故エコの思想からは相性が悪いと考えられていたのです。

『人新世の「資本論」』によるマルクス主義の新しい解釈

しかし、現在世界中の研究者によってMEGAと呼ばれる『マルクス・エンゲルス全集』(Marx-Engels-Gesamtausgabe)の刊行が進んでいます。

それによって、マルクスの「研究ノート」などこれまで公開されていなかった新資料が集められています。

斎藤幸平氏は晩年のマルクスの研究に注目しました。

例えば、化学者ユストゥス・フォン・リービッヒの「掠奪農業」批判にマルクスは感銘を受けていました。

リービッヒによれば、資本主義が進むことで農地の農作物が都市で消費されるようになります。

そうするとこれまで、農地で消費されていた場合にはその場所に還元されていた農作物のリンやカリウムなどの無機物が元の土地に戻ってくることがなくなります。

その結果土壌がやせ細ります。

筆者の考えでは晩年のマルクスは進歩史観からの転換を行い、エコの思想との親和性を高めていました。

※参考:『人新世の「資本論」』斎藤幸平さんインタビュー マルクスを新解釈、「脱成長コミュニズム」は世界を救うか(好書好日)

資本主義の問題を打破する「脱成長コミュニズム」とは何か

こういったマルクスの新解釈を元に斎藤幸平氏は資本主義を脱却し、「脱成長コミュニズム」への転換することを主張します。

では「脱成長コミュニズム」では具体的にどのようなことを目指すのでしょうか。

一言で要約すると社会に「余裕」=「非合理」を作ることです。

筆者によれば「脱成長コミュニズム」の柱は下記の5つあります。

使用価値経済への転換

マルクスは世の中の商品の価値を「使用価値」と「価値」に分けます。

参考:木暮太一『超入門 資本論』ダイヤモンド社、2014年。 

使用価値とは有用性のことで、例えばコップであれば、水を入れる機能のことを指します。

価値は商品につく値段のことです。

コップは水を入れる機能は変わらないにもかかわらず、デザインやブランドによって値段が上下します。

資本主義では投資や付加価値といった形で価値を増殖させることを重視します。

その結果どうなるのでしょうか。

使用価値としての割合が大きく付加価値をつけづらい新興国で作っている農作物等が安く買いたたかれたり、売れればいいという発想の下で使用価値の高いものは大量生産・大量廃棄がおこなわれます。

たとえば、服はまだ以前買ったものが着れるにもかかわらず次のもの買ったりしますよね。

本当に生きるために必要なものが軽視され、不要なものに振り回される、この価値転倒を何とかする必要が在ります。

労働時間の短縮

必要のないものを作ることをやめて、使用価値を生まない無駄な労働を削減していくことは、人々の生活にとっても、自然環境にとっても重要です。

画一的な分業の廃止

近代資本主義において人々は社会全体の効率性を上げるために、分業体制を拡大してきました。

もはや自分がやっている作業がどう社会に役立っているのか感じれる人は少ないのではないでしょうか。

それを人類学者デヴィッド・グレーバー氏はブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と表現します。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年。

その結果、個人は逆に無能力になってしまっています。

ひとりで魚も取れなければ、農作物を育てる技能もなく、身の回りの必要なものを作る能力もない。

このような状況では個人は市場・金に依存して自分の生活に必要なものを獲得せざるを得ません。

それを解消するために、多少非合理で当てもジョブローテーションをするなど、なるべく仕事の全体に触れるようにすることで、無能力からの脱却を目指します。

生産過程の民主化

生産手段を資本や国家のルールによって支配されるのではなく、<コモン>として共同で管理する必要があります

そうすることで、労働者が仕事において主導権を持ち、労働時間の短縮を目指すことができます。

エッセンシャル・ワークの重視

介護士や保育士など使用価値が高い仕事は、ケア相手との信頼関係が特に重要で属人的な「感情労働」です。

こうした属人的な労働はそれゆえに、機械化が困難で生産性が低い労働とみなされ、企業側からコストカットなど理不尽な目にあいやすい傾向にあります。

やはりここでも使用価値の再評価が必要になります。

3.5%という希望~信頼と相互扶助に向けて~

こういった「脱成長コミュニズム」を実現することは、資本主義の価値観から考えると非常に難しいです。

バンバン作って売れば売れるのに我慢する、生産性が落ちることを承知で分業をやめるなど、市場における利益最大化というゴールに対しては「非合理的」なことを行わなければなりません。

そこで何が重要になってくるのでしょうか。

市場的な合理性から距離を取れるようになる必要あります。

そのためには、市場から貨幣を媒介に獲得していたものを別の形で獲得する必要が在ります。

斎藤幸平氏はそこで「相互扶助」に重きを置き、市民が社会の運営に参加することで民主的に<コモン>を管理する必用性を唱えます。

そしてそのためには当然相手やコミュニティとの「信頼」が必要になります。

「相互扶助」と「信頼」によって市場的「非合理」を目指す。

やはり、難しく聞こえるでしょうか。

筆者は最後に政治学者エリカ・チェノウェス氏の研究を引用します。

その研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で本気でコミットすると、社会が大きく変わるというのです。

『人新世の「資本論」』から引用したくなる斎藤幸平さんの言葉

今のところは、所得の面で世界のトップ一〇~二〇%に入っている私たち多くの日本人の生活は安泰に見える。だが、この先、このままの生活を続ければ、グローバルな環境危機がさらに悪化する。その暁には、トップ一%の超富裕層にしか今のような生活は保障されないだろう。

気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。

こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」というという希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。


 

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