勉強によってノリが悪くなる、キモくなる、小賢しくなる。勉強する以上、それは避けられない。
この言葉をきいてどう思いましたでしょうか。
もしこの言葉を聞いてピン!と来ていないのであれば、今やっている勉強は非常に表面的で、本質をつかんでいない可能性があります。
千葉雅也氏の『勉強の哲学 来たるべきバカのために』は勉強とはなにか、本質的な勉強をするにはどうすればいいかを一から丁寧に説明した本になります。
千葉 雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』文藝春秋、2017年。
この記事では『勉強の哲学』の要約と解説を行います。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の3つのポイント
1.勉強とは今いるノリから別のノリへ移ることである
2.勉強にはツッコミとボケが必要だ
3.完璧主義には陥らず、勉強し続けなさい
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』のすっきり要約
『勉強の哲学』は勉強の本質・構造を考えることで、「深い勉強」を行う方法を提示することを目的としています。
著者はそのために、哲学・現代思想の考え方を使用して勉強を図式化します。
それによると、勉強とは自分が現在所属している価値体系の根拠を疑って相対化し、別の価値体系へと移動し、自分を相対的に自由にするためのものです。
しかし、価値体系の相対化は行おうと思えばどこまでも無限にできてしまいます。
そこで、筆者は無限に対して勉強を有限化する必要があると主張します。
本書では、一連の価値観の懐疑や価値観の移動、そして勉強の有限化の方法を簡単な言葉で解説してくれます。
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』のじっくり解説
「深い勉強」とは何か
人はだれでも特定の集団でのみ通じるノリの中にいます。
例えば、仲間内のノリ、家族のノリ、地元のノリ、会社のノリ、日本のノリなどです。
それぞれの集団において「私の家族では皆食卓にそろってから食べ始めて、その際はテレビを消します」のような習慣や慣例、つまりノリ、が存在します。
そのノリの内部にいるときは、そのノリが普通なので、自分が特殊なノリにいることに気づきません。
実家では普通にやっていることを友達の家に泊まりに行った際にやってしまい「何それ」と突っ込まれて、「ああ、これって普通じゃないんだ」と気づくという経験をしたことは少なくないのではないでしょうか。
小さい集団にいるときにはその自分が特殊なノリにいることに気づくことはたくさんありますが、「ここが変だよ日本人」のような大きな集団のノリはなかなか気づきにくいものです。
『勉強の哲学』が定義する勉強とは、現在自分が無意識に所属しているノリを客観的に見つめて、別のノリに引っ越しすることです。
勉強のやりかた~ボケとツッコミ~
その際に必要な考え方が、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアです。
ツッコミ=アイロニーとは自分が所属するノリの根拠を疑うことです。
「今の組織での飲み会でみんなコールをやっているけどなんでなんだろう」
「私の家族は焼肉の際に、父が肉を手元に置いて焼き、家族に分配するけどなんでなんだろう。狩猟民族かよ!」(私の実話です…笑)
「日本人がお辞儀をするのはなんでなんだろう」
そうすることで、別のノリに移動する準備が整います。
ボケ=ユーモアとは連想して、他のノリにズレることです。
ノリとは集団・文化圏の数だけ存在します。
「どうやら飲みを強要するのがパワハラの会社もあるようだ」
「世間では焼肉とはどうやら個々人が自由に焼いて食べるもののようだ」
「アメリカにはシェイクハンドが一般的な挨拶であるようだ」
しかし、別のノリに移るということは、元いたノリから見れば「ノリが悪くなる」ことです。
不良集団のノリを脱して、受験を目指すノリに移れば元の仲間からは「ノリが悪くなって」「キモい」と見えるかもしれません。
千葉雅也氏は勉強をする以上、一時的に「キモく」なることは避けられないといいます。
しかし、それを経てようやく新しいノリに移ることができます。
このとき、元居たノリにとどまっている時よりも、一つ新しいノリを知ったことで人は少しだけ自由になれます。
このように、これまでの自分を乗り越えて、新しいノリを獲得し、自由になることが千葉雅也氏が定義する「深い勉強」です。
なお筆者は哲学者であり、勉強もどちらかというとアカデミックなものを想定しているので、『勉強の哲学』ではノリを主に「言語」に注目して説明しています。
ある集団や業界特有な言葉遣いや専門用語を「ノリ」としているわけです。
例えば、IT業界ではカタカナの専門用語が頻発します。
フィックス、アサイン、アテンド、エビデンスなど。
それは外から見れば「キモい」です。(私も業界に入ったときはそう思いました。日本語で話せよ!笑)
しかし、しばらくするとそういった言葉遣いが自分になじんできます。
この時、人は新しい言語体系を学び、新しい価値観・ノリを獲得したことになります。
勉強のやりかた~有限化~
このボケとツッコミをやる上で一つ重要なことがあります。
それはツッコミもボケも無限にできてしまうということです。
極端な例を出してみましょう。
例えば、「今の組織での飲み会でみんなコールをやっているけどなんでなんだろう」というツッコミをしたとしましょう。
「皆で仲間であることを確認するためだ」という結論を得たとしましょう。
しかし、この結論にもまた「なぜ」という疑いを嘆かれることができます。
「組織をうまく回すため」→「なぜ組織をうまく回す必要が?」→「生産性をあげて利益を最大化するため」→「なぜ生産性をあげて利益を最大化する必要が」→「会社だから」→「なぜ会社が必要なのか」・・・
ボケについても同じです。
「どうやら飲みを強要するのがパワハラの会社もあるようだ」と別のノリを覗いたとしましょう。
しかし、ノリは無数に存在します。
「そもそも飲み会をやらない会社もある」
「朝活をやっている会社もある」
「リモート業務で同僚と会話すらない会社もある」
このようにボケとツッコミは無限にできてしまうのです。
つまり、勉強は無限にできます。
このままでは、「よその会社は…」「別の専門領域は…」などと無限に「目移り」し続けて勉強を深めることができません。
なので、「とりあえず勉強した」と言えるように勉強の範囲を決める必要があります。
それを『勉強の哲学』では「勉強の有限化」と表現しています。
それは学問なら、社会学や歴史学、工学などの専門分野や専門領域が有限化の役割を果たしてくれます。
仕事であれば、営業、マーケティング、エンジニア、その中でもサーバかアプリケーション開発かのように有限化されます。
このように一時的に自分の専門分野を定めて、比較を「中断」して初めて、勉強を深めていくことができます。
ここで一つ疑問が浮かぶのではないでしょうか。
無限に存在する勉強対象の中で何を選ぶべきかということを、無限にあるなら仮に自分の専門を決めることも困難なのではないか。
例えば大学の進学先、学部を選ぶことが中々できなかった人もいるのではないでしょうか。
医者でも弁護士にでも、会計士にもなれる無限の可能性を持った若き自分の可能性を狭めるなんて…!
そこを最終的に決定するのは個々人の「こだわり」=「好み」の問題になります。
ですので、勉強をするということは自分のこだわりを見つめ、自分を知ることでもあるのです。
勉強をやる上での注意事項
以上が勉強の構造であり、本質です。
『勉強の哲学』ではこの分析をベースに様々な勉強する際の注意点を説明してくれます。
例えば、一度有限化した勉強の範囲を絶対視しないで、ボケとユーモアによる比較を続けること。
イノベーションというのはしばしば別の領域の知識と今いる領域の知識が交差した時に生じます。
また、「うちの会社のやり方が絶対だから、ここで骨をうずめるつもりで、ここでの仕事のやり方を極めよう」と思い込んでしまっては、仮に世間一般ではブラック企業と言われる会社に所属していたとしてもそのことに気づけないという事態になります。
比較し続けること、勉強し続けることは非常に重要です。
また完璧主義にならないことも重要だと『勉強の哲学』は主張します。
これまで説明したように、勉強は無限にできます。
完璧を求めていては、勉強し続けるモチベーションがそがれることになってしまいます。
勉強の構造を把握したうえで、注意事項に留意し、自分の勉強を深めていきましょう!
『勉強の哲学 来たるべきバカのために』からつい引用したくなる千葉雅也氏の言葉
言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。
可能性をとりあえずの形にする。言語はそのためにある。
個々人がもつさまざまな日意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする。
信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人です。