人生の意味は考えるべきか否か

考え方
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「社会人になっても、忙しさに忙殺されてこうやって人生の意味を考えていくことを放棄したくないな」

 

僕は大学からの帰路の電車で友人にそう語った。

 

気恥ずかしくなって目線を逸らし、窓の外の暮色に染まる街並みを視界に入れる。

 

「忙しくて人生に悩むことを忘れられるなら、それはそれで幸せなんじゃない?」

 

友人はそう答えた。

 

「本当に?今、大切だと思っているものが変わることになんの抵抗もないの?」

 

「抵抗している自分もその時にはいないよね」

 

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人生の意味は考えるべきか否か

人生は無意味である

 

モラトリアムの青年らしい、少しイタさを感じる会話である。

 

「人生の意味」

 

この言葉は今や非常に脆い言葉だ。

 

最終的に死ぬのであれば、人生に何の意味がある?

 

昔であれば、神がその死に意味を与えてくれた。

 

しかし、「神が死んだ」今、死は徹底した無意味。

 

「後世に何かを残す」と言っても、極端なことを言えば、その内地球も宇宙もなくなり、後世は死に絶えることになる。

 

論理的に突き詰めれば、人生は無意味だという結論に落ち着くしかない。

 

そう言った意味で、僕の友人のスタンスは正しい。

 

「意味」という論理層で人生を肯定できないのであれば、「楽しみ」という感情層で人生を肯定するしかない。

 

忙しいというマイナスも含めて、感情で人生を埋め尽くし、意味を考える余地を与えない。

 

「人生意味はないけど、そこそこ楽しいじゃん」という感覚でも人は生きられる。

 

趣味に埋没。仕事に埋没。恋に埋没。

 

刹那刹那の感情の起伏に身を任せる、それは一つの戦略である。

 

実際にホリエモン氏はこの戦略を意識的に採用している。

 

行動している最中は思考から自由になれる。

 

彼曰く行動は「瞑想」なのだそうだ。(堀江貴文『時間革命 1秒もムダに生きるな』朝日新聞出版,2019年。

 

「人生の意味」の不可避性

 

しかし、それは問題を先延ばしにしているだけのように、僕は思う。

 

例えば、今この瞬間、趣味や恋や仕事で人生の意味についての思考を先延ばししたとする。

 

しかし、それは永遠には続かないのではないか。

 

恋は冷めれば終わるし、仕事は定年を迎えれば終わるし(最も定年を今まで通り迎えられるかも怪しいが)、趣味は飽きれば終わる。

 

終わった後に待っているのは、忘却していた「人生の意味」の問題である。

 

狂ったように次の「時間つぶし」を探し続けるのか?

 

その困難さは、定年後の男性の孤独死の実態が示している。

 

仕事にばかり精を出していた男性が、定年後に自分の突如自分の意味と居場所を失い、孤独に陥る。

 

女性と比べると人間関係などを仕事で犠牲にしがちの男性の孤独死数は女性の3倍近くになる。(菅野久美子『超孤独死社会』毎日新聞出版,2019年。)

 

たしかに、「人生は無意味」と知りつつ、「それでも私はこの意味にコミットする」というのは生半可のことではない。

 

ただ少なくとも、「人生の意味」と向き合えるだけの思考体力はつけておくべきなのではないか。

 

そのために、四六時中とは言わずとも、人生の意味について思い巡らすことは必要だ。

 

また、そもそも「人生の意味」がないと今ここを楽しめないというタイプの人間も存在する。

 

僕はまさにそのタイプだが、「人生の意味」をゴールに設定することで、逆照射的に今この習慣のプロセスに感情の起伏を与える。

 

何かを目指していたり、意味のあることをしている実感があることで今この瞬間が光り輝くのだ。

 

俗な言い方をすれば、人間には夢という虚構が必要なのだ。

 

いつまでも「人生の意味」や夢にこだわるのは未成熟?大人になれ?

 

今その「大人」にどれだけの意味がある。

 

今まで「大人」に社会的な承認を与えてくれていた企業共同体はもはやボロボロ。

 

企業に承認されて嬉しい人間がどれだけいる?

 

「大人」というモデルはもはや崩壊している。

 

まとめ

 

「人生に意味」に対していろいろな取り組み方があっていいと思う。

 

今この瞬間を楽しむ戦略でうまくいっている実例もたくさんある。

 

ただ少なくとも僕の意見としては、結局はいずれ考えないといけないという意味でも、今この瞬間をより楽しむためにも、「人生の意味」というのは重要に思う。

 

ただし、上記で書いたように、足元で「人生の無意味」がぽっかりと口を開けて待っている以上、「人生の意味」に真正面から取り組むのは非常に困難な道だ。

 

虚構だと知ってそれでも目指す

 

まさにこのブログのテーマである「檻のなかのダンス」的なスタンスが求められている。

 

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