2016年アメリカ合衆国大統領選挙において、大方のメディアの予想を裏切り、ドナルド・トランプが当選した。
この「世紀の番狂わせ」の舞台裏には、決定的に重要な役割を果たした「脚本家」がいると言われている。
彼はペイパルマフィアと呼ばれるシリコンバレー界隈の人脈ネットワークのドンである。
Facebookなどのベンチャー企業の成功の裏側には彼がいる。
その名はピーター・ティール。
投資家・事業家界の大物中の大物だ。
ただ、スタンフォード大学で哲学を専攻していたといったピーター・ティールの思想面のキャリアはあまり注目されていない。
また、ピーター・ティールが新反動主義という思想領域で一定のプレゼンスを発揮している存在であることは、あまり一般的には知られていない。
さらに、思想が取り上げられたとしても、大抵「成功したからいえるのだろう」という「強者の論理」としての扱いを受ける。
確かに、ピーター・ティールの思想には「強者の論理」としての側面はある。
しかし、そのことだけを理由に、その他の側面を切り捨てしまうには、あまりに豊潤な可能性と奥行きに満ちた思想である。
本稿では、思想としてのピーター・ティールを整理しつつ、彼の思想の再評価・再位置づけを行う。
トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』飛鳥新社、2018年。
大衆の思想としてのピーター・ティール~人は太古からヴァンパイアに恋してきた~
思想としてのピーター・ティール~異端のリバタリアン~
ピーター・ティールの思想は大きく分類すれば「リバタリアン」に分類される。
リバタリアンは経済的自由と人格的自由の二軸を用いて四象限に分類した時、経済的自由と人格的自由の両者を尊重する立場に当たる。
イメージとしてはクリント・イーストウッドの西部劇に出てくるカウボーイ的な性格だ。
「誰にも頼らない。政府の助けもいらない。自分の身は自分で守る。しかし、その分、俺の自由でやらせてもらうぜ。俺がつかんだお宝は全部俺のもんだ!」
だから、同じ人格的自由を尊重するリベラルと違い、リバタリアンは経済の格差の是正のための政府の介入には否定的である。
しかし、ピーター・ティールの思想には一般のリバタリアンと大きく異なる特色がある。
それが「イグジット(脱出)」の思想である。
一般のリバタリアンは経済的自由を尊重するために、一部思想的に市場原理主義(新自由主義)と接近する部分がある。
いわく、「市場における競争こそが社会を最も効率的にするのだ」と。
しかし、ピーター・ティールは市場における競争を重視しない。
むしろ、競争は当事者の利益を究極的にはゼロに近づけるゆがんだ資本主義として忌避する。
ピーター・ティールは既存の不毛な競争からイグジット(脱出)し、まだ見ぬ新しい市場を開拓して独占することが資本主義の本義だと主張する。
そして、その思想は「自由と民主主義はもはや両立しない」という、自由を重視して民主主義を否定する新反動主義につながる。
さらにピーター・ティールは、その思想を主張するだけではなく、投資家・事業家としての側面を生かし、実行に移している。
例えば、国家という既存の市場を脱するためにペイパルという経済圏を作った。
ポリティカルコレクトネスが蔓延し個人の自由が軽視される西洋文明を脱するために、ニュージーランド国籍を取得し、彼と志を同じくする億万長者と一緒に巨大地下シェルターを建造しているという。
同じく、Seasteading Instituteという会社の人工島国家プロジェクトを支援している。
さらには人間の寿命からもイグジットすべく、寿命延長研究を進めるメトセラ財団に多額の寄付をしている。
木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』講談社、2019年。
ここまで聞くと「シリコンバレー界隈で儲けた才能と金があるやつが、より儲けるためにやりたい放題やっているだけ」と判断してしまいたくなるだろう。
しかし、ピーター・ティールの追い求めているものは、世間一般の想像力からかけ離れているものではない。
才能ある金持ちの傲慢さが彼の思想を可能にしているわけではない。
むしろ、ピーター・ティールの望むものは世間一般の、大衆の欲望の延長線上にあるものだといえる。
この主張をより分かりやすくするために、ピーター・ティールと大衆の欲望の間に一本の補助線を引きたい。
その補助線は太古より、大衆の想像と、欲望と、憧れと、そして畏怖の対象である。
それは歴史を通じて語り継がれてきた存在である。
そして、ピーター・ティールと同じく、既存の秩序・支配構造からイグジットし、不老不死を追い求める存在だ。
そう、「ヴァンパイア」である。
大衆の思想と欲望のピーター・ティール~現代のヴァンパイア~
吸血鬼(きゅうけつき、英: vampire)は、民話や伝説などに登場する存在で、生命の根源とも言われる血を吸い、栄養源とする蘇った死人または不死の存在。その存在や力には実態が無いとされる。
狼男、フランケンシュタインの怪物と並び、世界中で知られている怪物のひとつ。
(引用元:Wikipedia「吸血鬼」)
現在のヴァンパイアのイメージを作ったのは、19世紀後半に書かれたブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』だが、ヴァンパイア=吸血鬼の伝説はかなり昔までさかのぼる。
ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』KADOKAWA、2014年。
吸血鬼の伝承は古くから世界各地で見られ、古代ギリシアのラミアーやエンプーサ、古代バビロニアのアフカルを皮切りにテッサリアの巫女、ブルーカ(ポルトガル)、ドルド(ドイツ)、東ヨーロッパのヴァンパイアに加え、アラビアのグール、中国のキョンシー等がある。
(引用元:Wikipedia「吸血鬼」)
このようにヴァンパイアは太古より、大衆の想像力の中にあった。
そして最も今日的な物語であるサブカルチャーの領域でもその憧憬は継続して表現されている。
例えば、『ジョジョの奇妙な冒険』、『HELLSING』そして『鬼滅の刃』。
ではヴァンパイア=吸血鬼のどういった点が、大衆の欲望だったのか。
これは、ヴァンパイアにまつわる様々な物語から読み取ることが可能である。
ある物語においては、老いることのない美しき容姿が羨望の対象になる。
ある物語においては、人間を超越した力が欲望の対象になる。
ある物語においては、夜を自由に闊歩する姿が憧憬の対象になる。
これらの欲望をコトヤマによる漫画『よふかしのうた』の表現を借りて要約すれば下記のようになるだろう。
「よふかしをするために吸血鬼になりたい」
よふかしとは、昼の世界=世俗的秩序から夜=自由な世界を楽しむこと。
つまり、世俗的秩序、例えば学校や会社、社会、法、人間関係など、からの「イグジット」。
そう、人間であるがゆえに付きまとう制限や束縛、面倒から「イグジット」している存在としてヴァンパイアは欲望されてきたのである。
そして今日、その「イグジット」に真正面から向き合っている思想家とはだれか。
ピーター・ティールである。
ヴァンパイアに恋するように、人はピーター・ティールに恋をする
「イグジット」を求め、自らの才能と人脈と資産を使うことを惜しまない思想家ピーター・ティール。
彼の思想を「持てるものの傲慢」と批判することはたやすい。
しかし、これまで見てきたように彼の思想は、世間一般の欲望の延長線上にある。
あるものはブラックな会社からのイグジットを望む。
あるものは煩わしい人間関係からのイグジットを望む。
あるものは夢のない生活からのイグジットを望む。
ピーター・ティールの思想は秩序としがらみの中で生きとし生けるもの全ての願望なのだ。
そんな彼を思想を「持てるものの傲慢」と切り捨てることは、自らの内に潜む本当の願望を否定することになる。
本当は望んでいるものを否定する、一人の人間の内に抱えられたそのような矛盾は、確実に個人の意欲や気力を蝕んでいく。
むろん彼の思想を全肯定する必要はない。
しかし、自らの鏡として、ある人にとってはロールモデルとして、見つめ直してみる必要があるのではないか。
なぜならば、ピーター・ティールは最も「大衆的」な思想家なのだから。