『プレイボール2』をちばあきお氏の『キャプテン』『プレイボール』の続編と思えない理由②

漫画・アニメ

前回の投稿で、『キャプテン』『プレイボール』の本質を下記のように述べた。

”以上のように、『キャプテン』『プレイボール』は「努力・不屈の精神」を谷口タカオの個人的カリスマによって伝承し、「墨谷魂」という文化・アイデンティティ・歴史を築き上げる「偉人伝」なのだ。

深層に「偉人伝」「谷口のカリスマ」、中層に「努力・不屈の精神」、表層に「各登場人物や設定」がある。”

↓↓↓『キャプテン』『プレイボール』の分析はこちら

本稿では、上記の分析を軸にして、『プレイボール2』の読解を進める。

『プレイボール2』におけるひどい変質

コージィ城倉, ちばあきお『プレイボール2 1』集英社、2017年。

一つ擁護するならば、『プレイボール2』は、『キャプテン』『プレイボール』が連載された当時とは、当然置かれる社会的文脈が違うという点だ。

例えば、かつて当然視されていた過剰な練習は、現代は「非科学的なオーバーワーク」として批判される。

だから、『プレイボール2』が、そのような現代的な文脈に合わせて『キャプテン』『プレイボール』をアップデートしようとしたとしても、その判断自体は否定できない。

しかし、その現代への適応で、根本的なテーマを棄損したとすれば話は違ってくる。

特に『プレイボール2』のコンセプトを「何も足さない、何も引かない」として打ち出している以上、テーマの棄損は決定的な欠点と批判されても仕方がない。

なにせ「和魂洋才」のつもりが「洋魂洋才」になってしまっているのだから。

なので、これから行う批評は作品単体で観たときのおもしろさに対する評価ではなく、『プレイボール2』がどれだけ『キャプテン』『プレイボール』のテーマからかけ離れているかの分析である。

そしてそれを通して『キャプテン』『プレイボール』の面白さの再評価をしようという試みである。

*

『プレイボール2』に欠落しているものを簡潔に述べると、物語の深層部分にあたる谷口の「偉人伝」的構造の理解と、その「偉人伝」が伝える内容にあたる物語構造中層の谷口メンタリティ「努力・不屈の精神」というテーマへの感染だ。

深層を理解していないがゆえに、中層のテーマを入れ替え可能なものと考え骨抜きにし、中層を軽視しているがゆえに表層に余計なノイズを盛り込んでいる。

その結果、『キャプテン』全体の構造が破壊され、表層の登場人物や設定という記号で戯れる二次創作に堕している。

それは主に下記の3点に現れている。

・「努力」を過剰に相対化しようとしている点
・キャラの無駄な掘り下げ
・谷口のメンヘラ天才化

以下ではそれぞれについて詳細に述べる。

問題点①:「努力」の過剰な相対化

『プレイール2』では努力に対する過剰な相対化が行われている。

たとえば、試合前日に練習をしたために翌日に疲労が残って苦戦する、といった表現が何度も繰り返されている。

これは原作のテーマを誤読している証拠である。

すでに述べたように、ちばあきお氏はそもそも「努力・不屈の精神」が谷口のカリスマ性によって感染していく「すごさ」を表現しているのであって、「過剰な努力」そのものを賞賛してはいない。

その証拠に『キャプテン』『プレイボール』の中で「過剰な努力」に対する自己言及的な批判は既にされている。

一つは『キャプテン』でのイガラシがキャプテン時代の話。

イガラシは日本一を目標に掲げ、過酷な練習スケジュールを組む。

最初はその過酷さに根を上げていた部員も、次第に食らいついていけるようになる。

これなら日本一を目指せる!皆がそう考え始めた。

しかし、不幸な事件が起こる。

練習中にある部員が素振りをしていたバットがすっぽ抜け、別の部員の頭に当たり、頭を縫う大けがを追ってしまう。

過酷な練習との因果関係が明言されている訳ではないが、練習の過酷さが批判の対象とされ、イガラシ率いる墨谷二中は全国大会を辞退することになる。

また『プレイボール』でも「過剰な努力」を相対化するシーンが描かれている。

谷口が試合の前日、練習を切り上げ、河原でのんびりすることを提案するシーンがある。

このように『キャプテン』『プレイボール』では、無批判に精神論的努力が称揚されている訳ではない。

ちばあきお『プレイボール 1』集英社、1996年。

それにも関わらず、「努力」を批判し続ける『プレイボール2』はキャプテンの表層の表現にとらわれ、本質を見落としているというほかない。

問題点②:登場人物の不要なキャラの掘り下げ

『プレイボール2』では個々のキャラを掘り下げ、キャラを立てようと試みている。

たとえば、半田の「バント名手化(殿間化)」や、イガラシの「独りよがり化」、井口の「全国級化」など。

このようなキャラ化は現在の漫画市場のニーズを考えると、ある意味仕方ないとも言える。

昨今の漫画・アニメは、物語・設定よりもキャラクター重視。

美少女と巨乳、ロボと必殺技、ロリッ子に男の娘をださないと売れない(というのは言いすぎだし少し古いか笑)。

キャラ萌え・二次創作市場などもあり、キャラさえしっかりしていれば波及効果で作品が売れるということもあるくらいだ。

名作漫画の続編といえども売り上げを気にしなければならないと言う制約がある以上、そのような市場のニーズとは無関連ではいれないだろう。

しかし、何度も言うようだが『キャプテン』『プレイボール』の続編を名乗るのであれば、根本のテーマは引き継ぐ必要がある。

キャラをゴテゴテさせることでテーマを見えづらくすれば、それは本末転倒だ。

個々のキャラを貫いているはずの谷口のメンタリティである「努力・不屈の精神」が、個々のキャラ立ちというノイズによってかき消され、見えづらくなってしまっている。

問題点③:谷口のこざかしいメンヘラ天才化

そして一番解せないのが、『キャプテン』『プレイボール』を貫く精神の核である谷口が、こざかしいメンヘラ天才になり果てていることである。

まず、この『プレイボール2』谷口はしゃべりすぎである!笑

こざかしい策を弄すな!笑

なんだ!このフィクサーみたいな書かれ方は!

『キャプテン』での谷口は言葉足らずで不器用であるために、部員に誤解されて衝突するシーンが幾度もある。

それでも、無言で続ける努力の姿勢に、部員はしびれてついていってしまったのじゃないのか!

不必要なロジックや言葉は、『キャプテン』『プレイボール』を貫く谷口のカリスマ性を減衰させてしまっている。

さらに、なぜ彼はメンヘラ化している。笑

不安で右往左往するヘタレになってしまっているじゃないか!笑

確かに『プレイボール』でも個々の戦略で迷い、相棒の倉橋に相談するシーンはある。

しかし、最後に決断して責任を引き受けていたのは谷口だったし、不安で右往左往することは『キャプテン』初期で卒業している!

『キャプテン』『プレイボール』の基本構造は「偉人伝」と言ったが、谷口は『キャプテン』初期で偉業をし遂げて伝説を作り、偉人として完成したのだ。

彼は神話になったのだ!

それ以降の『キャプテン』『プレイボール』は基本的にその偉人伝がどこまで広がっていくかという「伝承」の物語である。

それが急にメンヘラ化するなんて…!?

台無しじゃないか!!!笑

谷口はエヴァンゲリオンの碇シンジのように、読者が自らの脆弱な自意識を投影して同調するタイプの主人公ではない。笑

そして極めつけは、打ち損じを強引にスタンドに運ぶパワーバッターになるといった谷口のご都合主義的天才化。

これはひどい。笑

ちばあきお氏は「努力の精神」は称揚していたが、「努力すれば報われる」と言うようなチープで無邪気すぎる努力論は語っていなかった。

やるだけやって、それでもなお、実力差や不運の前に登場人物は膝をついていた。

その例は挙げればきりが無いが、谷口の指のケガ、丸井の春の予選敗退、イガラシの松尾事件、近藤退場、甲子園出場校には手も足も出ず、などなど。

努力は必ず報われるわけではない、「それでもなお」逆境に挑み続ける姿に感動するんじゃないか!

谷口のカリスマは奇跡を起こす才能に宿っているわけじゃない、その精神性に宿っているんだ!

このご都合主義的天才化はあまりにひどかったので、『キャプテン プロ編』を作るために、谷口をなんとしても甲子園に出場させつつ、プロに通用する実力にさせようとしたのかと勘ぐってしまったほどだ。

まとめ

以上のように『プレイボール2』は『キャプテン』『プレイボール』の根底の構造とテーマを、ひどく誤読してしまっている。

深層の「偉人伝」的物語構造を理解せず、それ故に中層の「努力・不屈の精神」がすべてを貫くバックボーンであることを見落とし、軽視している。

そのため、「現代野球への適応」や「ニーズへの最適化」のごとき些末なことのために、物語において一番重要な部分を骨抜きにしてしまった。

その結果どうか。

妙にキャラ立てされた「美少女」のような登場人物が、碇シンジのような自意識を抱えて、プロ野球編まで突き進むキャラ萌えお遊戯会になってしまった。

もはやかつての深みはなく、表層で記号ごっこ・お人形ごっこをしているようにしか見えない。

…という辛口な批評になってしまったがそれは『キャプテン』『プレイボール』を愛しているが故。

単体の作品としての『プレイボール2』は十分に楽しめる。

個人的にはキャラ立ちした半田君、大好きである!

美少女万歳である!ぶひぃぃぃぃぃ!

 

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