このような質問をされたときにスラスラ答えは出てくるだろうか。
「この作品の感想を教えてー!」
「今回の講義の感想をアンケートに記載しておいてください」
何かに対する「自分」の感想を問われたとき、かなりの確率で答えに詰まるのだはないだろうか。
ちなみに、私は答えに詰まる。
「別に…」
「どうでもいいんだよなぁ」
「まあ、おもしろかったとしか」
そういった言葉が胸中に浮かんでは消えていく。
そして面倒くさくなって、脳死状態で「普段触れないような話を聞けてよかったです」のようなどこでも使える感想を書きなぐることになる。
このように「自分」の感想を述べるということは、なかなか訓練をしていないと難しいものである。
【感想が出てこない】自分の感性を育むための最低条件
自分の感想を抱きにくい今日的環境
さらに今日、「自分の感想を述べる」ということは、その本来的な難しさに加え、環境的な要因によってもますます困難になっているように思う。
今日的な情報環境は自分独自の感性を育みにくくさせている。
どういうことか。
例えば、ある映画を見たとしよう。
観終わった後、皆さんはどうするだろうか。
おそらく速攻スマホを取り出すのではないだろうか。
映画館の出口あたりにあるファーストフード店に入るや否や、いや、早い人であればシアターを出てポップコーンのごみを捨ててすぐ歩きスマホを始めるのではないだろうか。
そしておもむろにgoogleの検索エンジンに「○○ 感想」と打ち込むだろう。
もしくは、twitterを立ち上げ、「#○○」と入力するだろう。
そして、自分がぼんやり抱いた感想がきちんと言語化されたり固まる前に、「今回の○○クソだったな…」という感想を目撃し、「そうか、今日見た○○はクソだったか…」と引きずられるのではないだろうか。
もちろん作品を見た瞬間「神!」と感想が固まるものもあるだろう。
しかし、全ての作品が見た瞬間に感想が結晶化するほどの衝撃を与えるわけではない。
むしろ、ぼんやりとして「うーん、よかった..よな!?」という感覚を抱いて終わる作品が多いはずだ。
そこに、イチゼロの極論で書かれたインターネット上の感想がたたきつけられたらどうなるか。
きっと影響を受けずにはいられないだろう。
本来はそういった評価が分かれる作品こそ、自分独自の感想が生じやすいはずなのに。
事態はさらに深刻かもしれない。
むしろ、作品を観る前からレビューを観ていることも少なくないだろう。
評価が分かれていて、あいまいな感想を抱きそうな作品は、その時点で鑑賞対象から外れ、「神!」な作品だけを見るということになる。
そして、「神!」というレビューの先入観に引きずられて作品を観れば、レビューの最大公約数的な感想を抱く可能性が高くなる。
このように、常時他人の意見や感想にさらされる今日の情報環境は、自分独自の感想を成熟させることを阻害する。
20世紀後半までの「企業の時代」と比べて、個性が重視される「個性の時代」である今日にこれは非常にまずい…
個性が求められるのに、個性を育みにくい環境に置かれているのだ。
自分の感性と個性と育むために
なので自分固有の感性を守り育むために、何か作品を鑑賞した際には、一定時間外部の感想から切り離されるクールタイムを設定してみようと思う。
そして、自分がその時抱いた感想をきちんと言語化して形にして残しておく。
そうすれば、あとで他の人のいかにも説得力がありげな感想を読んで「確かにそうかも…」と思ったとしても、言語化したもの読み返して「そうか、私が最初に抱いた感想はこれだったんだよな」と、他人と自分が抱いた感想の境界線を保っていられる。
もちろん、他人の意見に触れることはわるいことではない。
しかし、今日的な情報環境が自分と他人の境界が融解しやすい「人類補完化計画」的な世界だということは十分意識して対策しておく必要がある。