やっと新巻きたーーーーーーーーーーーーーー!
はい。
ということで、この記事では雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。6』の感想と解説をまとめます。
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。6』の用語解説
見た目に基づいた差別。外見至上主義とほぼ同義。
もちろん、外見もその人の魅力を構成する一要素なので、完全にそれを排除することはできないが、外見だけが唯一の判断基準になったとき「ルッキズム」と呼ばれる。
人間の理性を重視し、合理的な知識に基づいて世界を再編しようという考え方。
具体的には、宗教や迷信が支配していた中世の価値観から抜け出そうとする考え方。ヨーロッパでは17世紀後半から18世紀にかけて力を持っていた。
18世紀の哲学者、政治哲学者。自然状態を平和な状態ととらえた。
私有財産という概念が生まれたことで、かつて人々が備えていた憐れみと自己愛を喪失させ、今日の文明社会の不平等・不公正につながったと考える。それゆえ、憐れみ・同情を抱ける範囲での小規模集団での直接選挙を重視する。
20世紀後半のアメリカの哲学者。ネオプラグマティスト。
普遍的な「真理」ではなく、「感情教育」による実践を重視した。たとえば、「なぜ差別をしてはいけないのか」という問題があったとき、「人間にみな平等だから」という真理を論証したり主張したりしてどうこうしようとするのではなく、「人間みな平等だ」という感情が働くように人々を教育することを重視する。
※参考:
宮台真司、苅部直、渡辺靖『民主主義は不可能なのか?:コモンセンスが崩壊した世界で』読書人、2019年。
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。6』で引用されている名言
ルソー「きみ自身の支配者になりなさい」
前述のようにルソーは自然状態の人間を平和な状態と考えていました。
だから基本的には文明には否定的です。
しかし、だからといって欲望に振り回されるのはよくない。
欲望をも支配しろとルソーは言います。
自分の私的利益を棚上げし、社会の利益を考える「一般意志」に従うことを主張しました。
リチャード・ローティ「私たちの奥底には私たちが自分でそこに置いたもの以外に何もない」
ローティは人間の本質を把握することよりも、環境の中でうまく順応できる信念や習慣を発達させることに関心があるネオプラグマティストです。
そのことが言えるためには、ある出来事にぶつかったときにどのように感じるのかという感情のパターンは「一定程度可変である」という前提が存在している必要があります。
「今の自分が嫌でツライと思う感情は変えられる」
『ここは今から倫理です。6』ではその前提を参照する意図で物語の中で引用されたものと思われます。
雨瀬シオリ『ここは今から倫理です。6』の感想
相変わらず、哲学者の思想を参照・引用しながら生徒の抱える問題解決のヒントを与える高柳先生はいいキャラをしています。
達観したような世界へのまなざしと、ただそれでも全ての問題を解決できるわけではないという人間臭い苦悩のバランスが絶妙です。
ただ、この巻の「哲学者の思想の引用」あまりスムーズじゃないような気がします。
引用されている哲学者はルソーにローティと、ともに個人の心の中で働く感情を重視する哲学者です。
感情を問題にしているので使い勝手がよく、「生徒の日常の問題」に結びつけやすいのだとは思うのですが、その分逆に結び付け方が雑になってしまっているような気がします。
また、引用している哲学者の数もこれまでの巻と比較すると減っていて、少し「ネタ切れかな…」という感じも。
この漫画の面白さの核は「日常の問題」と「哲学者の思想」が結び付くときに生じる「そこと結びつくのか―!」という「思考の飛躍の快楽」にあると考えています。
「自分の悩みってそんな大きな問題と結びついていたんだー!」みたいな。
4巻までのその手際が非常に鮮やかな分、この巻は少し物足りない感じもします。
そのため、「偉人の言葉でなんか煙に巻かれちゃったな」感があります。
話ごとにちょうどいい問題と思想を用立てるのは大変な労力ですので、6巻にもなれば仕方ないとは思うのですが。
ポジティブにとらえれば、今までの「思想家大全」感が失われた一方で、6巻全体で見れば「個人の内面と世間の常識」というテーマでまとまり感があったともいえるかなと。
大好きな作家さんなので今後に期待です!