※ネタバレ注意
近年、ミヒャエル・エンデ氏の『モモ』が注目されています。
この本は1973年にドイツで執筆された児童文学なのですが、何故今日本で注目を集めているのでしょうか。
ひとつには、2020年10月から柴咲コウ主演のドラマ『35歳の少女』があります。
遊川和彦、南々井 梢 『35歳の少女』河出書房新社、2020年。
このドラマの中でミヒャエル・エンデ『モモ』が何度も引用されました。
また、NHKで2020年7月に特集されたことも原因の一つでしょう。
河合俊雄『NHK100分de名著 モモ ミヒャエル・エンデ』 NHK出版、2020年。
しかし、上記で述べた理由は新しい疑問を生じさせます。
何故『モモ』は様々な媒体で、今取り上げられているのでしょうか。
それは、まさにモモで描いているテーマが、まさに現代の社会が抱えている問題を見事に表現しているからではないでしょうか。
リモート化が進み生活の時間配分を否応なしに見直さざるを得なくなった今、『モモ』は考えるヒントをくれる必読書と言えるでしょう。
この記事ではミヒャエル・エンデ『モモ』のネタバレあらすじと考察をまとめ、現代社会においていかに生きるべきかを考えます。
ミヒャエル・エンデ『モモ』の3つのポイント
・「システム」の象徴としての「灰色の男たち」
・「生活世界」の象徴としての「モモ」
・時間が解決してくれる問題もある
ミヒャエル・エンデ『モモ』のネタバレあらすじ
円形劇場の遺跡にある浮浪児の女の子住み着きました。
名前はモモ。
町の人たちは当初、子ども一人がホームレスのような生活をすること心配していましたが、彼女の円形劇場遺跡に住みたいという意志が固いと知ると、彼女が円形劇場の遺跡で生活できるように、ベッドをこしらえたりと環境を整備してあげました。
交流をしているいると、町の人たちはすぐに彼女を好きになりました。
彼女は人の話を聞くことが非常に上手く、彼女と話していると心に「余裕」が生じ、悩みが小さくなっていったのです。
「モモのところに行ってごらん!」というのが町の人たちのきまり文句になりました。
モモと町の人々は慎ましくも満ち足りた生活をしていました。
しかし、ある時を境に町の人たちはモモの下を訪れなくなりました。
「時間貯蓄銀行」を名乗る灰色の男たちが暗躍したためです。
彼らは豊かになること以外に使う時間は無駄なものだと人々を説得し、人々に「時間を倹約」し、自分たちに預けることを勧めました。
そうやって、彼らは町の人々の時間をだまし取ってしまったのです。
役立たずのペットは処分し、親は養老院に入れ、友達付き合いもやめ、趣味はやめる。
誇りをもってやっていた仕事は効率を追求するあまり金のための作業になり、時には誇りに反する仕事まで行うようになりました。
そうやって節約した時間は「時間貯蓄銀行」に盗まれていきます。
人々は忙しく生きるようになり、モモのところに訪れる「暇」がなくなりました。
さらに、「時間貯蓄銀行」の灰色の男たちは、人々の心に「余裕」をもたらすモモを危険視し、とらえようとしました。
町を負われたモモは不思議なカメにに導かれて、時間の国に住む時間を司るマイスター・ホラの元を訪れました。
彼女はホラから灰色の男たちは盗んで時間を使って生きているので、盗まれた時間を解放すれば灰色の男たちは消えて、人々が昔のように戻るということを聞かされました。
ホラは時間の結晶である一輪の時間の花をモモに渡すと、時間を止めてしまいました。
時間の花が咲いている間だけ、モモは止まった時の中を動けます。
時間の供給がなくなった灰色の男たちは大急ぎで盗んだ時間の保管庫に逃げ帰りましたが、一人また一人と消滅していきました。
モモは灰色の男たちの後を追って、時間の保管庫の場所を突き止め、盗まれていた時間を解放しました。
その結果、人々はまた以前のように余裕をもって暮らし始めましたとさ。
ミヒャエル・エンデ『モモ』の考察
2つの象徴:システムと生活世界
この寓話には「灰色の男たち」と「モモ」という二つの象徴が出てきます。
彼らはそれぞれ以下のものを象徴していると思われます。
- 灰色の男たち:近代以降の消費社会の構造・システム
- モモ:「本来」の人の生き方
政治哲学者ハーバマスの言葉を借りれば、それぞれは「システム」と「生活世界」に該当します。
宮台真司ほか『民主主義は不可能なのか』の中でシステムと生活世界は下記のように説明されています。
ハーバマスは『コミュニケイション的行為の理論』で近代社会における市場経済、国家行政といった「システム」が、公共性を持った人々のコミュニケーション領域である「生活世界」を侵食していると指摘した。このテーゼは「システムによる生活世界の植民地化」として知られる。
簡単に言えば、金で何でもできるようになると、以前はコミュニケーションによって金に頼らずうまく回っていたことも金で解決する方が便利で簡単になり、最終的にコミュニケーションなどの金とは別の手段が衰退するということです。
例えば、コンビニなどの便利な市場のサービスが普及すると、商店街などの「お得意さんだから負けとくよ!」と言った人間関係をベースにしたやり取りがなくなり、均一で無機質な金銭のみを媒介にしたやり取りのみの世界になります。
以下では「システム」と「生活世界」を実際に『モモ』に重ねて説明していきます。
灰色の男たちが象徴する「システム」
灰色の男たちは人々に合理的に生きることをすすめます。
何かに役立つことをすることをするように説得します。
大人の居酒屋には貧乏な老人たちを相手に商売をするのをやめて金回りのいい人間だけを相手するように説き、子供には無駄なごっこ遊びはやめて、勉強に役立つゲームをすることを勧めます。
友人やご近所とのつながりも無駄なものだと切り捨てます。
そうやって無駄を徹底して排除して、合理的になることを人々に説きます。
しかし、「合理的」とは本来「何か目的を達成するのに役立つ」という意味です。
「目的」がない限りは、合理的にはなりようもありません。
しかし、灰色の男たちはただ合理的になることをすすめるだけで「目的」にあたる「価値観」を提示することはありません。
人々は目的なく、ただ何かに駆り立てられるかのように「効率的」で「合理的」になっていきます。
何のためかわからない忙しさ。
それは人々の心を確実に蝕みます。
その空虚さを埋めるために、「合理的」で「効率的」な労働から生み出された商品を消費します。
灰色の男たちはモモを追い詰めるために、友達を「消費社会」の奴隷にし、代わりにその「消費社会」から生み出された「美しい人形」で遊ぶことをモモに勧める姿はまさにそれです。
しかし、商品は金銭でしか獲得できないため、ますます人々は「合理的」な労働に駆り立てられていきます。
この姿はまさに私たちが現代の社会で抱く問題でもあります。
例えば、「消費社会」というシステムの中では様々広告などでこれまで別に欲しくなかったものを人に欲しいと思わせます。
消費社会から生み出されたものを獲得するためには金銭が必要になります。
そこで人々は市場で戦って金銭を獲得する必要があります。
だから、人々は他人とのコミュニケーションなどの消費社会の外側の領域をないがしろにして、労働に駆り立てられることになります。
しかし、それは辛い。
だから、その生活に耐えられるように効率的な娯楽を求めます。
こうして人々はますます「消費社会」に依存していくことになります。
灰色の男たちは、ある種マッチポンプともいえる消費社会の構造・システムを象徴しています。
モモが象徴する「生活世界」
一方、モモが象徴しているのはそういった消費社会の「システム」に侵食される前の人々のあり方です。
具体的なイメージとしては子どもときの時間の過ごし方でしょうか。
おもちゃやゲームがなくても友達と集まれば、コミュニケーションを通じて何かしらの遊びを生み出します。
公園に行けば秘密基地を作り、数人が集まればごっこ遊びが始まるというように。
そこには何かに役立つといった「合理性」はなく、ただ遊ぶために行われます。
無駄と意味の時間こそがこの物語における「豊かさ」の源泉なのです。
モノはなくとも満ち足りた生活と時間、それがモモの象徴するものです。
モモはひとの言葉に耳を傾け、また世界の一つ一つの声を聴くことでそういった豊かな時間を過ごしています。
そして、そんなモモと会話する人々もまた、モモにゆったりと話を聞いてもらうことで自分をより深く理解することができ、豊かに生きることが可能になります。
時間が余裕を生み、余裕が心を深め、心が活力につながります。
モモを取り巻く冒険物語と人間ドラマは、つい私たちが忘れてしまいがちな時間の過ごし方を思い出させてくれます。
ミヒャエル・エンデ『モモ』の思わず引用したくなる名言
モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
いそげばいそぐほど、ちっともまえにすすめません。
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