橘玲『無理ゲー社会』の要約と解説|残酷な世界の生き方

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『上級国民/下級国民』が出版されてから早2年。

「自分のどうしようもないところで全てが決定されている」という社会の感覚は、ますます強まりました。

あー、人生つんだwww

やばい!生活が良くなるイメージがわかない!

満を持して出版された『上級国民/下級国民』のアップデート版、橘玲氏『無理ゲー社会』は、そのような社会の「無理ゲー」感をうまくとらえて分析し、これからの生き方について考えを巡らせています。

橘玲『無理ゲー社会』小学館、2021年。

この記事では橘玲氏の『無理ゲー社会』の要約と解説を行い、「残酷な世界」を我々がどのように生きればよいのかのヒントを探します。

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橘玲『無理ゲー社会』の3つのポイント

・リベラルな社会でリベラルに生きられないのはつらい

・才能は遺伝で限界づけられている

・「残酷な世界」は自然の摂理でどうしようもない

橘玲『無理ゲー社会』の著者

・早稲田大学出身

・元宝島社の編集者

・『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などの投資や経済に関するビジネス書、経済小説を多数手がけるベストセラー作家

橘玲『無理ゲー社会』のひとこと要約

本書は行動遺伝学など、自然法則や先天的な要素などの不可変に近い領域を扱う学問的知見を駆使して社会の現状を解説している。

「自分らしくいきられる」リベラル化が現代では蔓延しているが、自分らしく生きられる人間と生きられない人間の格差が拡大している。

しかし、その状況はべき法則や才能の遺伝など、人には抗えない原因によって引き起こされているのでどうしようもない。

なので、人はその世界の残酷さを理解してあがくしかない。

橘玲『無理ゲー社会』のじっくり解説

リベラルな社会でリベラルに生きられない非モテはつらい

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現代社会は「自分の人生は自分で決める」社会

現代社会はリベラルな価値観が蔓延している社会と言えるでしょう。

リベラルな価値観とは、『無理ゲー社会』の言葉を借りれば「自分の人生は自分で決める」「すべてのひとが〝自分らしく生きられる〟社会を目指すべきだ」という価値観です。

多くの人は生まれや性別などで自分の人生を決められるべきではないという感覚を共有していますし、見合いで親から決められた相手と結婚を強制される生き方は前時代的だと思っています。

「自分らしく」と聞けば、なんとなくプラスのことのように感じるのではないでしょうか。

「自分の人生は自分で決める」の副作用

しかし、こういったリベラルの価値観には副作用がありました。

それは人を「孤独」にするということです。

「自分の人生は自分で決める」が当たり前になると、当然人はそれぞれ自分の思い思いの選択をするようになります。

たとえば、昔だったら地元で親の仕事を引き継いでいた人も、自分の仕事で好きな仕事を選び、自分の好きな場所に引っ越すことを望むようになります。

会社も一度就職すれば終身雇用というわけではなく、転職を前提としたキャリアプランを考えるようになります。

つまり、「個人、中間共同体、国家」という3つの単位の中で、地域や会社といった「中間共同体」がバラバラに解体されていき、力を失っていくのです。

これは人がうざったいしがらみから解放される一方で、個人が頼れるのが「個人、中間共同体、国家」の内、「個人」ーーーつまり市場で自分の力で稼ぐーーーか「国家」というシステムしかなくなるということです。

仲間による助け合いが消滅、人は「孤独」になります。

その結果どうなるのでしょうか。

才能と能力の時代の到来です。

個人の力で自由市場で勝てる人は、「中間共同体」がなくなり自由になった分、「自分で自分の人生を決める」ということを謳歌できるようになります。

一方、個人の力で市場で勝てない人はたとえ悲惨な目にあったとしても、「自己責任」として、その結果と自分の境遇を自分一人で引き受けなければなりません。

この二極化は様々な側面で現れています。

例えば、経済です。

稼ぐ力がある人はリモートで世界とつながって、いくつもの仕事を同時並行で進めている一方、これまで会社という「中間共同体」に保護されていた中間所得層は所得が伸び悩み、人によっては職を失うことになっています。
(参考:ダイヤモンドオンライン「一億総リストラ」)

また他には、恋愛です。

モテる人はマッチングアプリを活用してバンバン色々な人とつき合っている一方、これまで地域や親族関係といった「中間共同体」によって運営される見合いによって結婚相手を見つけていた非モテは、独身のまま年を重ねていくことになります。
(参考:内閣府「年齢(5歳階級)別未婚率の推移」『少子化対策の現状』

このように、リベラルな社会でリベラルに生きられないのは非常につらいことなのです。

余談ですが、この「中間共同体」がない「個人」の社会でこそ、目的を持って「チーム」を作ることで有利に勝ち残れると主張したのが京都大学客員准教授で投資家だった瀧本哲史氏です。

瀧本哲史『君に友だちはいらない』講談社、2013年。

無理ゲー社会~才能は遺伝で限界づけられている~

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以上で説明した「才能と能力の自己責任」が本当にだれにでもチャンスが開かれた「公平な自己責任」であれば人々の納得感もがあったはずです。

「あの人は努力した。しかし俺はしていないから、今の結果はしかたない」のように。

しかし、橘玲は遺伝学の観点から、現代社会は「公平な自己責任」ではないと主張します。

先ほど指摘したように、現在は自由市場で勝てる「才能」を持った人だけが特権を享受できる社会です。

しかし、その「才能」は遺伝によって大きく決定づけられています。

例として、才能の中でも現代社会で特に重要とされる「知能」について『無理ゲー社会』で参照されている箇所を見てみます。

イギリスの社会学者マイケル・ヤング氏は「全く当然のことながら、有能な父親が有能な子供をもつことは事実」であり、この流れは「知能指数の高いもの同士の結婚が広く行なわれるようになる」ことでさらに加速すると指摘しました。

行動遺伝学の安藤寿康氏は「知能の遺伝率は思春期の終わりには70%以上に達する」と研究で明らかにしました。

橘玲氏はこの状況を指して「才能の貴族制度」と表現しています。

どうでしょうか。

自分で決められない才能によって、自分の人生の多くを決定づけられているにもかかわらず、自己責任を求められる社会に納得ができますでしょうか。

いわゆる「あー、人生つんでるわ」という「無理ゲー」感に、絶望と怒りを感じないでしょうか。

実際に、世界同時多発的に「トランプ現象」や「共産主義のリバイバル」のような形でその怒りは噴出し、「無理ゲー」をぶっ壊そうという動きにつながっています。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』 集英社、2020年。

「残酷な世界」は自然の摂理なのでどうしようもない

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マイケル・サンデルの「これが答えだ!」

これまで述べてきたような社会分析は政治哲学者のマイケル・サンデル氏『実力も運のうち』でより詳細に行っています。(というよりも橘氏はマイケル・サンデルの研究も一つの参考文献としている)

マイケル・サンデル『実力も運のうち』早川書房、2021年。

サンデル氏は、この「無理ゲー社会」の打開策を「中間共同体」の復活に見出しています。

「中間共同体がなくなって、個人間の競争が激化したことで格差が広がったのであれば、もう一度中間共同体を作ればいい」

こういうロジックです(この立場をコミュニタリアニズムという)。

ひどく雑にまとめれば、「非モテにもう一度お見合いを!」というわけです。

「非モテと結婚させられる方はどうよ」問題

一方、橘玲氏はこの立場をとりません。

というのは、橘玲氏はこの「中間共同体」が解体されて社会が「無理ゲー」になるのは、「自然の摂理」であり、人の力ではどうすることもできないと考えているからです。

そもそも、中間共同体が解体され、自由市場が全面化のは何故だったのかを考えてみましょう。

それは、人々が自由を求めたからです。

地域のしがらみや家族、一つの会社に一生縛り付けられるということを嫌って、自由になりたいと望んだからです。

つまり、「中間共同体」が解体されたのは、人々の欲望に基づいて行われたわけです。

では、人々はもう一度以前のように不自由な社会に戻ることを望むのでしょうか。

・仕事は親の仕事を継がなければならない。

・好きでもない人と結婚しなければならない。

・安いスーバーに行くと近所の商店街のお隣さんから白い目で見られる。

・一つの会社をクビになったら終わり。

・中学校時代にいじめてきた奴と大人になっても同じ自治体で顔を合わせる

このような不都合を引き受けてまで、人々は以前の「中間共同体」を望むのでしょうか。

先ほどの比喩に即して言えば、「非モテにもう一度お見合いを!けど、非モテと結婚させられる方はどうよ!」というわけです。

格差=べき分布は自然法則!?

また、橘玲氏は格差は自然の摂理なので人にはどうすることもできないとも考えています。

『無理ゲー社会』のなかでは物理学者エイドリアン・べジャンの「コンストラクタル」理論が参照されて以下のように述べられています。

この世界は「ばらばら」になるように物理法則によって決定されているから。

もう少しかみ砕きましょう。

格差とはすなわち人口がべき分布(ロングテール)している状態です。

実は世界を見渡した時、べき分布で説明できる現象の方が多いのです。

インターネットブログのリンク数も、友人の数も、雪の結晶化の法則性も、地震の大きさと発生頻度も、ガラスを床に落とした際の破片の大きさの分布も、全てべき分布をしているのです。

中間の値(平均の値)の分布が多くなる正規分布は、実は例外的な現象であって、べき分布こそが自然界の基本的な法則なのです。

とすれば、所得や恋人の数、評判が同じようにべき分布していくのは「自然の摂理」となります。

このことを踏まえ、橘玲氏は無理ゲー社会に以下のように向き合い方を述べています。

この状況で「絶望するな」というのは難しいだろう。

それにもかかわらず、きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)を、たった一人一人で攻略しなければならない。

これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ。

わたしたちは、なんとかしてこの「残酷な世界」を生き延びていくほかはない。

橘玲『無理ゲー社会』の思わず引用したくなる名言

メリトクラシーの背景には、「教育によって学力はいくらでも向上する」「努力すればどんな夢でもかなう」という信念がある。これこそが、「リベラルな社会」を成り立たせる最大の「神話」だ。

メリトクラシーのジレンマは、「知的な人たちと同じように、知能の低い子供やその両親も、程度こそ少ないが、やはり野心をかきたてられること」だ。

親は子どもに過剰に自分たちの”夢”を託すが、「野心が愚鈍といっしょになると、挫折を生むしかない」と一蹴されている。

不満だらけのエリート・ワナビーズelite-wannabes(エリートなりたがり)

 


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