※ネタバレ注意
宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』を読みました。
読み終えたとき、頭の中に色々な疑問が残っていました。
例えば、
などです。
同じような疑問を抱いた方も多いのではないでしょうか。
そこでこの記事では、『推し、燃ゆ』感想を述べるとともに、物語が意味していることを解説・考察します。
『推し、燃ゆ。』のネタバレ要約
主人公のあかりは、アイドル上野真幸を推していた。
その没頭ぶりは日常生活の一切が目に入らなくなるほど。
しかし、ある日推しが燃えた。
ファンを殴ったということがニュースになったのだ。
主人公はその状況には流されず、むしろ推しの真幸を支えるためにより一層の「推し活」に精を出ことになる。
その姿ははたから見れば破綻者、狂気そのものであった。
しかし、その状況は永遠には続かなかった。
推しの真幸が、アイドルグループの解散と共に芸能界を引退し、結婚したからだ。
このことをきっかけに主人公は今まで放棄してきた日常生活を生きる覚悟をした。
『推し、燃ゆ』を理解する3つのポイント
・「肉=世俗=日常」と「骨=超越=非日常」の対立軸で物語全体の構造を解釈することが可能
・主人公はなぜ病名を与えられたのか
・ラストシーンで主人公は推し活をやめて社会に適応したことを意味するのか
『推し、燃ゆ』のじっくり解説
『推し、燃ゆ』全体の構造:超越と世俗
『推し、燃ゆ』は全体を通して世俗と超越の対立軸で描かれています。
世俗とは簡単に言うと日常生活・現実世界のことです。
作品の中では学校生活、バイトや仕事、家事、世間一般の人における趣味などが当てはまります。
作中では「肉」や「大人」が世俗の象徴として用いられています。
一方、超越とは非日常・理想のことです。
一般的に、超越という言葉を用いるときには、宗教における神や使命、あの世などの「世俗・現実」に含まれないものを指すときに使います。
作品の中では祖母の死や、主人公にとっての趣味、つまり「推し」が超越側に属します。
主人公が推しのラジオやテレビ、記事を全て網羅し、推しの人となりを解釈しようと躍起になっている姿は、さながら教典から教祖の考えに近づこうと修行する信徒です。
主人公が推し活のために自分をきつい状況に置くことを「業」という仏教用語を用いて表現していることからも、その符号は明らかです。
作中の象徴表現としては「骨」や「子ども」が用いられています。
「肉=生のイメージ=世俗」/「骨=死のイメージ=超越」の対比、「大人=現実に埋没する存在=日常」/「子ども=夢を見る存在=非日常」という対比は実に鮮やかです。
【参考:アイドルと宗教の構造的類似性について】
濱野智史『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』筑摩書房、2012年。
人生の意味は超越が与える
「超越」を考えるときに重要なのは、歴史的に人の生きる意味を与えてきたのは「超越」側だったということです。
例えば、中世では神の国(=天国)という超越に至るために、人々はつらい現実・世俗に耐えて祈りなどの活動をしていました。
近代では国家に役立つという使命のために、人々は現実世界で働き、戦争に出向いて命を散らしています。
神や国家が使いづらくなった現代世界においては、しばしば超越の位置に「愛」が置かれることが多いです。
愛のために生きるというストーリーのなんと多いことか!
『推し、燃ゆ』においてはこの超越の位置に「推し」が置かれることになります。
さて、この超越と世俗の関係を考えたとき、多くの人はバランスを取りながら生きています。
さらにいえば、世俗側の比重を大きくして、退屈であっても日常にそれなりに適応して生きています。
普段は考えていることの多くは、学校生活や仕事や家事、人間関係のことです。
バランスを欠き「推し=超越」に突き抜けている主人公
しかし、主人公は違います。
バランスを大きく欠いており、超越側、つまり「推し」へと大きく傾いています。
主人公は「病気」の関係から元々うまく日常生活になじめていませんでした。
そういった状況の中でアイドルを推すようになり、その推し活のためにますます日常生活を軽視するようになりました。
その様な自分の状況を指して、主人公は以下のように表現しています。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。
この表現は本当に物凄い…!
主人公の世俗・超越への世界観をここまでうまく比喩で表せるものかと、読んだときは思わず鳥肌が立ちました。
要約すると、普通の人であれば日常・俗の領域に属するはずの「趣味」が、主人公にとっては超越側に属しているということです。
↓↓「推し」の意味や得られるものについての考察はこちら
推しの「ファン殴り」が持つ作品の中での意味
さて、こうした主人公の世俗と超越のバランスは、推しがファンを殴ったという事件を通して大きく変わることになります。
アイドルというのはすなわち偶像であり、人々の理想を具現化です。
ファンにとってアイドルは、生々しい人間臭さを欠いた超越側の存在です。
一方で「殴る」という行為は、怒りや争い、暴力などの人間の生臭さがこびりついた「世俗」を象徴する振る舞いです。
アイドルにふさわしくない「殴る」という行為をした推しは、アイドルをやめることになります。
主人公はそのこと以下のように表現しています。
アイドルではなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になったのだ。
この作品において「殴る」という行為は、「アイドル=超越」を「人=世俗」に堕天させる契機として機能します。
『推し、燃ゆ』のラストの描写の意味は?
この事件が発生してすぐの主人公は、「殴る」という行為の人間臭さがこびりついた推しを再び超越的な存在に押し上げるために、より一層推し活に没頭します。
「生半可な覚悟では推せない」と意気込み、中古屋の推しグッズをかたっぱしから回収、そのためにバイトを入れまくり、学校まで中退する。
家族との関係もめちゃくちゃで独り暮らしをすることになり、その一人暮らし先もゴミ屋敷になります。
しかし、その推しの人間臭さを隠蔽する粉飾決算は徐々に崩壊していきます。
推しの女性スクープ、結婚指輪をつけたグループ解散会見など、推しの「人=世俗」としての生活臭を感じさせる出来事が連続します。
そして極めつけはネットで特定された推しのマンションで洗濯物を干す女性を見かけ(作中では推しの同棲相手であることは明記されていないが)、推しの人間臭い生活感がこれでもかとたたきつけられます。
このことをきっかけに主人公は、日常生活へと回帰することになります。
そのことが如実に表れているのが下記の文章です。
中心ではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った。骨も肉も、すべてがあたしだった。
今までおろそかにしていた「肉=世俗=日常」を受け入れます。
最後のシーンの白く黴が生えたおにぎりを拾い、空のペットボトルを拾うという行為にそれが反映されています。
いわゆる「掃除」という生活臭い行為を主人公がおこなっているのは象徴的です。
このように、『推し、燃ゆ』は推しという「超越」に突き抜けた主人公が「世俗」に回帰する物語として解釈できます。
『推し、燃ゆ』の感想と考察
『推し、燃ゆ』の感想:良かった点
まず本作において個人的に良かったところ上げていきます。
『推し、燃ゆ』の主人公のように、世間になじめず、社会に適応できな存在が超越的な方向へ突き進むのは文学におけるある種の典型パターンです。
例えば、三島由紀夫の『金閣寺』もそうですし、最近の作品では中村文則氏の作品群はそういった内容です。
そういった意味では、非常に文学の基本に忠実な保守本流な作品といえるでしょう。
宇佐見りん氏はそれを「推し」という現代的モチーフを使って、うまくアップデートしています。
また、骨と肉の表現や狂気的な推し活を通して、そういった作品群に特有の主人公の「キモさ」もかなりの迫力で伝わってきました。
特に「もう生半可には推せなかった」以降の描写は最高です。
あと、著者が推し活をしている人ならではの、「推し活あるある」の具体的な描写も豊かで、思わず主人公に共感してしまい、くすリとなりました。
『推し、燃ゆ』の考察①:なぜ主人公は病名を与えられたのか
しかし、一点疑問といいますか、腑に落ちないところがあります。
それは主人公がわざわざ病名を与えられた設定だということです。
なぜ主人公は「病名」を持った存在として描かれているのでしょうか。
『推し、燃ゆ』に関して著者の宇佐見りん氏にインタビューしたFNNの動画があります。
これによると著者は「推し活は白い目で見られたり軽く見られたりするが、推し活を人生の中心に据えた価値観もありだし、尊重してほしい」という想いで本書を執筆したと言っています。
もしそのメッセージを伝えたいのであれば、なぜ主人公に「病名」を与えたのでしょうか。
「病名」が与えられることで、そのテーマがぶれてしまっているように感じます(インタビューの発言が本心だと仮定するならば)。
「病名」があることで、「普通じゃないから日常生活になじめないのも仕方ないよね」であったり、「日常生活になじめず、現実が充実していないから推し活なんてしているんだろ」のように、「推し活」する「言い訳」が読み込まれる余地が生じます。
「病名」があることで、「推し活」的価値観をきちんと説得することなく、なし崩し的に読者に納得させてしまいます。
特に今日「弱い立場」にある人にマッチョな根性論を推しつけることはポリティカルコレクトネスに反する恐れがあり、読者は「推し活」的価値観の説得性が薄くても、そこに「社会をしらない子供の価値観だ」と突っ込みを行うことは難しくなります。
つまり、「病名」という設定を導入することで、世間の常識と対等な価値観として「推し活」という価値観を提唱するのではなく、「弱者の論理」で「推し活」を正当化してしまっていることになります。
本当に「推し活を人生の中心に据えた価値観もあり」と著者が思っているなら、「病名」という設定を持たない主人公が推し活をして、世間から否定されて葛藤を抱えながらも、それでもなお推し活に意味を見出すという姿を描いてほしかったです。
「日常生活をなんなくこなせる人が歪なほど推し活にのめりこむ」、そのような世間からすれば眉をひそめそうな不気味行いを、筆者の暴力的なまでの文章力と表現力で、読者をねじ伏せ、納得させ、「そんな生き方もありかも」と頭をかち割ってほしかった。
世俗・世間に帰るラストと相まって、「筆者は推し活を人生の中心に据える価値観の正当性を心の底では疑っていて、言い訳が必要なものと思っているのでは」と感じ、少しさみしくなりました。
※参考:
「芥川賞受賞!宇佐見りん著『推し、燃ゆ』推してしのぐ、ままならない“重さ”」『読むらじる』
「芥川賞受賞『推し、燃ゆ』の宇佐見りんが語る「“推し”と“癒し”の関係」」『現代ビジネス』
『推し、燃ゆ』の考察②:筆者にとって推し活はどうでもいいもの?
では、今度は逆の可能性を考えてみましょう。
「推し活は白い目で見られたり軽く見られたりするが、推し活を人生の中心に据えた価値観もありだし、尊重してほしい」というインタビューの筆者の言葉の方が、パフォーマンスだったとしたらどうでしょうか。
つまり、筆者にとって実は推し活はどうでもいいもので、今っぽいテーマで世間の話題をかっさらうための装飾だったとしたらどうでしょうか(末恐ろしい…)。
「推し活なんてやめて社会に帰れ」が本当のメッセージだとしたら、「病名」が与えられたことはむしろ整合性が取れます。
「推し活は弱っているときに一時的に頼る占いのようなもの」というテーマが一貫することになります。
しかし、今度は別の問題が生じます。
それは「推し活なんてやめて社会に帰れ」がメッセージにしては、ラストシーンまでに主人公の価値観が相対化されていないということです。
『推し、燃ゆ』は一貫して「世間vs主人公」の構図を取ります。
主人公に常識を押し付ける母や姉の心情に、主人公が思いをめぐらせるシーンは一切ありません。
ずっと主人公が「正義」であるかのような描かれ方をしています。
母や姉といった「世間一般の社会」になじむ伏線が一切ありません。
「推し活なんてやめて社会に帰れ」がメッセージなのだとしたら、伏線のない急展開で、いささか乱暴すぎるように思います。
『推し、燃ゆ』の考察③:ラストで主人公の推し活は終わったのか
では最後の可能性として、ラストのシーンが世俗社会に帰っていなかったとしたらどうでしょうか。
主人公の推し活は、ラストのシーンでも、終わっていなかったとしたらどうでしょうか。
どういうことでしょうか。
文中にこのような記述があります。
なぜ推しが人を殴ったのか、大切なものを自分の手で壊そうとしたのか、真相はわからない。未来永劫、わからない。でももっとずっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている気もする。彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。
ここから読み取るに、主人公は最後まで推しから離れてはいません。
むしろ、一体化しています。
単純に世俗に帰っているわけではなく、世俗に一緒に帰ることを通して超越である推しと永遠に一体化していると解釈したらどうでしょうか。
あるいは逆に、主人公は「超越」と一体化することで、同時に「世俗」に帰ることができたと解釈してはどうでしょうか。
主人公はこれから推しに合わせて「世俗に帰る=推し活を卒業する」ことで、逆説的に「永遠の推し活=超越」を続けることになります
これであれば「日常生活がこんなひとであっても推しの力で社会になじめる」というロジックで「推し活」の価値観を肯定していることになり、考察①の「病名」の設定が生きてきます。
また、「超越」を続けているので、考察②の「社会に帰れの伏線が雑」という問題も解消されます。
これによって、筆者は推しというテーマを通して、人類史で人々の重要な問題であり続けた世俗/超越の構造に、新しい姿を見出したことになります。
深読みが過ぎるでしょうか。
『推し、燃ゆ』のまとめ簡易版
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