今さらながら、映画『聲の形』を観た。
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本作は、とある小学校において聴覚障害が理由でひどいいじめを受けた少女・西宮硝子と、そのいじめの中心人物だった少年・石田将也を取り巻く物語である。
将也は学校サイドからいじめの犯人として裁かれた際、他の加担及び傍観していた子どもたちから手のひら返しを受け、事件後、逆にいじめの標的となる。
中学校でもいじめは継続して孤立することになった将也は、高校に入るころには人間不信になっており、自殺を決意する。
自殺前に将也は硝子に会いに行こうとし、そこから物語が展開していく。
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この作品を観終わった後に映画に対する感想を調べたが、「ひどい」「気持ち悪い」という酷評がなされていた。
しかし、その批判の多くは、この「映画に対する評価」として、妥当ではないように思われる。
むしろ、それらの「ひどい」「気持ち悪い」という評価は、逆説的に映画『聲の形』の意図が成功している証明してしまっていると言える。
どういうことか。
本稿では、その理由を語ることで、映画『聲の形』の本当に描こうとしていた核心を抽出することにしたい。
なお、あらかじめ本稿の議論の射程を述べておく。
本稿は現実のいじめ問題がどうあるべきかについて言及するものではない。
無邪気に小学生の過ちなのだから許されるべきだと主張することも、小学生だろうと徹底して厳罰化すべきだと主張することも意図していない。
あくまで映画の中で描写されているもの、メッセージに関する分析にとどまる。
映画『聲の形』が「ひどい」という感想は、映画の成功の証!?
映画『聲の形』がひどい?寄せられる感想の要旨
映画『聲の形』が「ひどい」とされる理由は主に以下のようなものである。
「主人公の将也に対して甘すぎる!」
「いじめの犯人たちが救済される感動ポルノだ!」
「いじめに加担していた川井が自分が悪いとも思っておらず、主人公のせいにばかりしていてイラつく!」
「筆談用のノートを汚したり、非常に高価な補聴器を何回も破損させたりするなど、硝子いじめの内容がひどすぎる!」
これらはすなわち、主人公たちの罪への向き合い方に対する批判である。
「いじめの内容がひどすぎるのに比べて、主人公たちへの罰が軽すぎる」と主張しているのである。
そして、これらの主張からは、映画『聲の形』は「罪の意識に向き合う」という主題を描こうとしていると批判者たちが理解していることが読み取れる。
確かに、主題をそのようにみなすのであれば、映画『聲の形』に対する批判は妥当である。
かつてのいじめの実行者たちは特別なんの償いもなく仲直りし、友達として丸く収まる。
小学生の硝子に対するさんざんな仕打ちに比べれば、全くの無罪放免に見える。
しかし、ここで一つ疑問が残る。
映画『聲の形』はそもそも、「罪の意識に向き合うこと」を主題として描こうとしているのだろうか。
「罪の意識に向き合うこと」を主題として描こうとしていないのであれば、主人公たちの罪への向き合い方が「ひどい」ことは、作品の批判の決定打にはなりえない。
『聲の形』の「登場人物がひどい」は妥当である:不在の「加害者」
結論を述べると映画『聲の形』は、全く「罪の意識に向き合うこと」を主題として描こうとしていない。
その様な意図が一ミリも感じられない。
一体、登場人物の誰が罪の意識を抱いているというのだろうか。
小学校での硝子への陰口に同調していた川井みきはもちろん自分のイノセンスを疑っていない。
全ては「巨悪」の将也が実行したことであり、自分はその恐怖政治によって抑圧されていたと心の底から信じ込んでいる。
そして、被害者の自分には将也を弾劾する権利があると確信して疑わない。
硝子に対する女子たちの陰口の主犯だった植野直花は「硝子が空気を読まなかった」ことが悪いと主張し、高校生になって再開した時にも小学生の時と同様に補聴器を奪って遊ぼうとする。
主人公の将也も罪の意識に向き合っている描写はない。
主人公が苦しんでいるのは、硝子への罪の意識ではなく、徹頭徹尾自分がいじめられていることであり、そして自分が日常生活をうまく営めていないことに対してなのである。
主人公は、一部の隙もなく最初から最後まで被害者なのだ。
このように、映画『聲の形』は「罪の意識に向き合うこと」に失敗しているのではなく、そもそも描こうとすらしていない。
この作品において罪の意識に苦しんでいる「加害者」は存在しないのだ。
映画『聲の形』の「ひどい登場人物」たちが獲得したもの
では、「罪の意識に向き合うこと」が主題ではないとすれば、映画『聲の形』は何を描こうとしているのだろうか。
いじめの加害者たちに対して何の批評性も持たず、野放しにする作品なのだろうか。
いや、そうではない。
いじめの加害者たちへの批評性は、実は、一つメタなレベルで実行されているのだ。
そして、それこそが映画『聲の形』が描こうとしたものなのである。
それは、この「加害者」不在の物語を通して、「被害者」たちが獲得したものから見えてくる。
彼らは一見、仲直りして大団円を迎えているに見える。
しかし、彼らが得た友情の実態はどうだったか。
非常に薄っぺらいものである。
川井は最初から最後まで一方的で独善的な被害者であることをやめようとせず、にもかかわらず、ある「事故」でけがを負った主人公への千羽鶴で、すぐ、お友達だ。
高校に入ってできた友達の真柴智も、ほぼ「友達だよね」と口で言うだけの描写で過去のいじめ関係者メンバーの輪の中に、訳を知ったかのように入ってきて、そのまましれっと最後までいる。
主人公将也を小学校・中学生を通していじめ続けた男子たちも、何の脈絡もなく仲直りフラグを立てている。
しかし、この「大団円」は実に不穏な雰囲気に満ちている。
誰もかれも腹の中に何かを抱えていそうである。
彼らの友情は非常に表層的で軽薄なものに見える。
(主人公の親友・永束友宏だけは例外で、将也としっかりとした友情を築いているようにみえるが、これは将也が永束がヤンキーに絡まれているところを損得勘定なく体を張って助けたことに起因しており、いじめとは無関係で成立しているものなので、バランスはとれている。作品唯一の良心!)
つまり、映画『聲の形』は「罪の意識に向き合うこと」をせず「友情」コミュニケーションにふける「被害者」たちが、その結果「薄っぺらい友情」しか手に入れることができないという物語なのである。
その意味では、「加害者救済の感動ポルノ」ではなく、むしろ「感動ポルノへの露悪的なカリカチャ」であり、そして「加害者」がより大団円を迎える原作に対する映画側からの批判なのである。
なので、「薄っぺらい友情」にふける「加害者」不在の物語が、視聴者に「ひどい」「気持ち悪い」という感想を与えることは、映画の批評性ゆえのことであり、映画の意図の成功を意味する。
これは決して、過度な深読みではない。
映画では、原作においては描写されていた、主人公たちの友情や関係性を分厚く見せるためのシーンが、徹底してそぎ落とされている。
例えば、将也と硝子を含めた恋愛要素は、結末を含めてかなりカットされている。
真柴や川井に共感させるための背景ストーリーもカットだ。
そして主人公一同が苦労しながら、ともに映画製作をするシーンもカットだ。
このように、映画『聲の形』は、徹頭徹尾、原作の友情関係・人間関係を薄っぺらく「変調」させている。
ここには明らかに意図が読み取れる。
それゆえに、映画『聲の形』の「登場人物がひどい」という感想は妥当であるが、それは「映画がひどい」ことには直結せず、そのような角度からなされる多くの批判はあまり妥当ではない。
なぜならば、「登場人物がひどい」という感想を視聴者に抱かせることは、「感動ポルノへの露悪的なカリカチャ」という映画の意図の成功を意味するからだ。
とくに、「被害者」将也が、自分が責められる「弱い立場」になったとき、自分を心配してくれた永束を含む他の人間には当たり散らかして突き放したにもかかわらず、自分より「弱い立場」で自分を拒絶しない、かつていじめていた硝子に「友達面」で粘着して、自身の承認を回復しようとする醜悪な姿の描き方は、文学的ですらある。