夏の終わりに考えるなつかしい風景|作品では泣けるのに

考え方
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「映画とか漫画ではよく泣くけど、現実だとあまり泣いたことがない」

こんなことを感じたことはないだろうか。

このようなことはいったい何故生じるのだろう。

今回の投稿は限りなくこの問いに対する答えに近づく。

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夏の終わりに考えるなつかしい風景―作品では泣けるのに

なつかしさを感じる学校

みなさんにはなつかしいと思う風景があるだろうか。

僕は大阪の郊外で育った。

小学生が10秒で描くような均質なデザインの一軒家が延々と並ぶ住宅街。

この風景は金太郎飴のように日本中どこでも見られる。

関東に越してきた時も、地元と同じような風景が広がっていたために全く違和感がなかった。

だからなのか、帰省してもなつかしいという感情に襲われることはない。

故郷であって故郷じゃない感覚。

むしろ故郷「が」ない感覚。

これは郊外育ちの人にとって共通の感覚なのだろうか。

*

しかし、面白いことに僕がなつかしいと感じる風景は別に存在する。

それは学校だ。

それも僕の出身校だけでなく、どこの学校、たとえば上京後の住宅の周辺にある学校、を見てもなつかしさを感じる。

僕はよく散歩をするのだが、そのルートに学校がある。

灰色の校舎と、緑色のフェンスに囲まれたグラウンド、グラウンドにぽつんとたたずむバスケットゴール、校舎から漏れてくる楽器の音、そして夕暮れ。

それらを見るとなつかしさが自然とわき上がってくる。

これはいったいどういうことだろうか。

仮想空間が生じさせるなつかしさ

今回は自分のなつかしさ、言いかえるのであれば「故郷」の由来を探ってみたい。

まず出発点として、「なつかしい」とはなんだろうか。

それは、過去の記憶と紐付いて引き起こされる感傷的な気分である。

ポイントは過去の記憶と紐付いているというところにある。

感動的な映画、たとえば闘病もの、を見て涙腺が緩んだとしても、それは一般に「なつかしさ」とは言わないのではないか。

では学校という風景は僕の記憶とどのように紐付けられているのだろうか。

…と、記憶をさかのぼってみたが、ない!!!

これといって印象的な、感情を揺さぶるような記憶が、ない!笑

学生時代の柱となっていたのは主に勉強と部活だが、両方とも何か目標に向かってコミットしていたわけではなかった。

とりあえず、「学生としてそうするもの」とされていることを、なんとなくこなしていた。

特に感情的な盛り上がりがあったエピソードが、ない。笑

だとすると、ただ長時間過ごしていたという積み重ねが感傷につながっているのか?

うーむ、だとすれば家や家の周辺になつかしさを感じないとおかしいということになる。

どういうことだろう…。

と考えたところで一つピンとくるものがあった。

それは、私が学生時代実家で過ごしていた時間は、物理的には家にいたが、精神的には仮想空間にいたということだ。

より具体的には、漫画や本を読んでいた。

つまり主観的には私は、なつかしさと結びつけられるほどの時間を、家で過ごしていなかったのだ。

逆に、これらの仮想空間上では、笑い、泣き、怒り、濃密な時間を過ごしていた。

これは僕が学校になつかしさを感じるという事実とも符号する。

つまり、現実では特に感傷的になるエピソードはなかった学校だが、仮想空間上ではふんだんにあったのだ。

『スラムダンク』的な学校も過ごしたし、『ちはやふる』的な学校も過ごしたし、『GTO』的な学校も過ごしたした。笑

その仮想空間上で生じた感情が、情報空間上で灰色の校舎や校庭という記号と結びつき、現実の学校に逆照射・逆輸入されているのだ。

このことは、僕のもう一つのなつかしさを感じる「故郷」が裏付ける。

僕は学校の他に夏の田舎の家の縁側のイメージになつかしさを感じる。

青い空と、若々しい緑、セミの声と風鈴の音。

そんな場所に住んだことがないにもかかわらず。笑

住むどころか行ったことがないにもかかわらず、いわゆる『サマーウォーズ』的な風景になつかしさを感じる。

これは仮想空間での体験が、現実での体験と並列して存在し、記憶の重要な一部になっているからに他ならない。

まとめ

今はVRやyoutube、ソーシャルゲームに漫画・アニメといったの濃密な体験を可能にする仮想空間での娯楽が、一生かかっても消費しきれないほどあふれている。

量が質を凌駕するにとどまらず、質もより現実に近くなっていく。

必然的に現実空間と仮想空間との重みの差はなくなる。

そのような環境で生きていると、僕の「なつかしい」のように、感情やメンタリティを構成する要素として、仮想空間の比重が大きくなってくる。

冒頭の問いかけの「映画とか漫画ではよく泣くけど、現実だとあまり泣いたことがない」のように、より物語的なものに反応するメンタリティになったとしても、それはむしろ自然なことだ。

それが良いとか悪いとか関係なく、仮想化へ向かう社会の変化の流れが不可逆である以上、その変化は不可逆だ。

だとすれば、それを「偽物」として批判したとしても、なんら生産性はない。

「私は冷めた人間なんだ」と自分に失望する必要もない。

なぜならそれは時代的なものだからだ。

だとすれば、僕たちには架空の「故郷」と「なつかしさ」を大切にしていくしかないのだ。

ただ、それを現実を生きる糧にはしていきたいとは思う。

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