理不尽に対して声をあげる

考え方
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暮色に染まる小学校の教室、机と椅子の影は長く伸びている。

生徒たちは一人を除き、みんな席についている。

どうやら終礼をしているようだ。

みんな唯一立ち上がっている男子生徒に視線を送っている。

「注目」という表現ではニュアンスに欠けるところがある。

男子生徒には圧力を帯びた視線が注がれている。

教室の中は静まり、微かな嗚咽が聞こえる。

その男子生徒は視線を受け泣いていた。

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理不尽に対して声をあげる

これは僕の原体験だ。

泣いていた男子生徒は僕だ。

終礼で僕の「悪行」が告発されたのだ。

具体的に何が非難されていたのかは覚えていない。

ただ、そのときの胸におこっていた感情は覚えている。

「違う!違うんだ!」

身に覚えのない告発に対して必死に弁明をしていた。

しかし、普段あまり怒られることがなく、口下手だった僕はその思いを口にすることができなかった。

言葉を発しようとすると、声が震え、感情が抑えきれずわっと泣き出してしまう。

だから、その時の僕にとっては理不尽な責めにだったにも関わらず、口をつぐみ、何も声をあげれずにいた。

しかし、我慢すればするほど、行き場をなくした思いは涙として目からあふれ出た。

泣いている自分を見られていることに恥ずかしさを感じで止めようとしたが、一度あふれた涙はとどめることができなかった。

時間を気にかけた教師が会を打ち切るまで、羞恥の時間は続いた。

*

「理不尽に対して声をあげる」

この体験のあと、ぼんやりした目標ができた。

それを言葉として意識したのは社会人になってからだが、原体験のあとから今に至るまで、ずっと自分の行動を方向づけて続けてきたように感じる。

教室で積極的にウケを狙うようになったのもその後。

本を読み、言葉を身に着けようとしたのもその後。

過剰に論理にこだわるようになったのもその後。

無意識のうちに、教室で泣いていた小学生の自分を弁護しようとしていたのかもしれない。

しかし、言葉や論理がうまくなっても、年を経るごとに逆に声をあげられないことが増えていった。

正しいことを正しいとといえない状況がある。

声をあげるためにはうまい立ち回りや、力が必要である。

そして、仮に声をあげて論理を駆使したとしても、周囲は何も変わらない。

正しさは人を動かさない。

声をあげているのに、声をあげられていない。

すべてがシステムやどこのだれかに管理された出来レースに思える。

小学生の時に難しかったことは、もっともっと難しくなった。

*

この社会で理不尽に抗い、声をあげて、自由にふるまうことは非常に難しい。

ただ、声をあげることはやめたくないし、やめてはいけないと思う。

なぜなら、どうするか迷うとき、常にあの教室の風景が思い浮かぶからだ。

あの時、誰かが僕の代わりに声をあげてくれれば、どれほど心強かっただろう。

その誰かでありたいと思う。

過去の自分に救いの手を…

「理不尽に対して声をあげる」

そのためには準備が必要であり、学ぶことが必要だ。

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