休日・時間の有意義の過ごし方~ヤンキーとオタクとその間~

考え方

ランニングのコースとして、とある公園の中の道を走っていた。

中央に池があり、その周りを走ると一周で丁度800メートルほどになる。

いつものランニングコースのはずがその日は雰囲気がいつもと少し違っていた。

人が多く、活気にあふれている。

特に家族連れかカップルが多く、中には長期滞在できるようなテントまで設置している家族もいる。

明らかに外出が自粛されるようになる前よりも、増えている。

おそらく、遠出できなくなったことで、地元で気晴らしと遊びを済まそうとしているのだろう。

そこでいくつか疑問が浮かんできた。

外出自粛によって人々の休日の行動はどのように変化しただろうか。

この公園にいるのはどういった人たちなんだろうか。

外出自粛下における休日・時間の過ごし方

自粛要請が続く中で休日はどのように過ごされていますでしょうか。

外出や夜間の飲食が敬遠される中、時間はあるがうまく使えていないと感じている方は多いのでしょうか。

リモートワークも増えて家にこもってばっかりでストレスは増える一方。

サブスクリプションサービスの映画やアニメも色々見漁ったけどなんだか不完全燃焼感がある。

気晴らしの方法が現在の状況に追いつていない!

そこでこの記事では、外出自粛に伴って生じた変化について考えながら、より有意義な時間の使い方のヒントを探します。

二極化する休日の時間の使い方~ヤンキーとオタク~

現在の社会変動による大きな影響としてしばしば、富裕層と貧困層の二極化があげられます。

例えば、富裕層はここ一年でこれまでにないほど資産を増やしました。

2018年8月に1兆ドルだったAppleの時価総額は、2020年8月には2兆円に達しました。

ここで考えたいのは、この中間層の解体が解体されて二極化するという現象は、所得においてだけではなく、文化圏においても生じるているのではないかということです。

どういうことでしょうか。

その二つ極は、比喩的に表現するならば「ヤンキー」スタイルと「オタク」スタイルと言えるでしょう。

比喩としての「ヤンキー」で刺し示している特徴は地元、コミュニティ、リアルです。

ヤンキーは中学高校と生まれ育った地元に根を張って、そこの生活圏で可能な文化に属します。

地域のコミュニティを重視し、個人主義で自身の能力だけに頼るのではなく、そのコミュニティでの互助も活用します。

時間の過ごし方も、金銭による個人消費というより、仲間とつるんで一緒の時間を過ごすことが多いです。

仲間内の定番の過ごし方や仲間内で思いついた遊びを実行します。

私がランニング中に見かけた地元での過ごし方はヤンキー的だと言えるでしょう。

斎藤環『ヤンキー化する日本』KADOKAWA、2014年。

遠距離での移動や人混みが敬遠されていることに加え、通勤手当を廃止する企業が増えるなか、出かけるよりも地元で過ごすように動機づけが働くことは想像に難くありません。

一方、比喩としての「オタク」で指し示している特徴は情報空間、個人、インターネット。

コミュニティに属さず、インターネット経由で金銭を支払い、もしくは無料のサービスを享受します。

自分の意志で選んだサービスや、googleなどのプラットフォーム側が提供するサービスを享受することになります。

例えば、定額動画配信サービスでの時間の使い方は後者に当たるでしょう。

動画サービスの登録者数の推移を見れば、より多くの人が「オタク」化しているのは明らかです。

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この二極化に言及することで、ある人が「ヤンキー」スタイルしかしないであるとか、「オタク」スタイルでしか時間を過ごさないといったことを意図しているのではありません。

もちろん人によってどちらに軸足があるかの違いはあるでしょうが、ここで意図しているのはあくまで個人の時間の使い方が「ヤンキー」か「オタク」になったということです。

ではこのように生活スタイルが「ヤンキー」と「オタク」に二分化されたことで、解体された「中間層」とは一体何なのでしょうか。

私たちが失ってしまった時間の過ごし方とはいったい何なのでしょうか。

解体された「中間層」の内容について掘り下げることで、我々が現在感じている不完全燃焼感の正体に近づきたいと思います。

解体された「中間」的な休日・時間の過ごし方

分解された「中間層」は、比喩として表現するならば「都市・街」での時間です。

都市は地元ほどべったりしたコミュニティはない、しかし、インターネットほど個人化されているわけではありません。

街を歩いていると偶然の物との出会いもあれば、知りはしなくともなんとなくそこに人がいる、そんな空間です。

大衆の中を匿名の個人として空間をなんとはなしにぶらついていると様々な「呼び声」が聞こえます。

足の裏から伝わる、身体を使って、町を闊歩しているという実感。

多種多様な商品が並ぶショーウィンドウと雑貨店の店先。

おしゃれなファッションに身を包み街をいく人々。

飲食店から漂うおいしそうな香り。

街に出たときには目的を持っていなかったとしても、街を闊歩している間に何かしらの欲望が自分の内に目覚めています。

そう、「中間層」が解体されて失われた時間の過ごし方は、環境から誘惑されるという体験なのです。

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哲学的にはそのことをアフォーダンスと言います。

人は必ずしも能動的な存在ではなく、環境によって刺激が与えられ、感情が生じているのです。

佐々木正人『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』講談社、2008年。

「ヤンキー」スタイルにも「オタク」スタイルにも、環境によって自由に誘惑されるという経験は乏しいです。

「ヤンキー」スタイルであればコミュニティや場所的な制約から、刺激には制約があります。

「オタク」スタイルであれば、モノがない情報空間という特性上、自分が意図しない限りは何かが勝手に発生することはありません。

いずれにせよ、「都市・街」的な場に身を置き、モノによって誘引されるという経験は希薄になります。

その結果、退屈だけど何かしたいわけじゃないというあの不全感が生じます。

休日の過ごし方が二極化してしまった現在、これまで意識せず自然に行えていた「中間」的なスタイルでの休日・時間の過ごし方はもはや身近なものではなくなってしまいました。

今後は「中間」的なスタイルでの時間の過ごし方を意識して確保していく必要がありそうです。

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